1988年11月、埼玉県三郷市で自転車で走行していた女子高生(当時17歳)が、突然、不良少年グループに拉致された。
女子高生は約40日間にわたり、東京都足立区の加害者宅に監禁され、暴行や強姦を受け続けた末、翌年1月4日に集団リンチを受けて死亡。
遺体はコンクリート詰めにされ、東京都江東区内の東京湾埋立地に遺棄された。
いわゆる「女子高生コンクリート詰め殺人事件」は、事件から36年が経過した現在も「史上最悪の少年犯罪」として記憶されている。
犯人として逮捕されたのは、A(当時18歳)、B(同17歳)、C(同16歳)、D(同17歳)、E(同16歳)、F(同16歳)、G(同16歳)の7人の少年だった。このうち、成人と同等の刑事裁判が妥当とされ、家庭裁判所から検察に逆送致されたのはA~Dの4人。Eは特別少年院送致、Fは中等少年院送致、Gは保護観察処分となった。
本記事では、ノンフィクション作家・藤井誠二氏の著書『少年が人を殺した街を歩く 君たちはなぜ残酷になれたのか』(論創社、2025年)から、事件から9年後、上記の少年のうちFこと「カズキ」が藤井氏に語った、事件当時の状況や少年院での経験、後悔、そして被害者への供養の思いが記された箇所を抜粋して紹介する。(本文:藤井誠二)

25歳になった加害少年

事件から9年。カズキは25歳になり、関東近郊の都市で新聞配達員として働いていた。一昨年(1996年)、結婚もした。
僕は数年振りにカズキに会った。以前のような、おどおどした表情は消え、言葉遣いにも淀(よど)みがなくなっていた。彼は独白をするように、事件や自分が受けた処遇、自身の心境について語り続けた。
「(被害者が拉致された)当日、A君から、『おもしろいものを見せてやるから来い』と誘いがありました。

自分としては、あまり行きたくはなかったんで、断りたかったんですけど、断ると怖い印象がA君には強かったので、そのときはしぶしぶ行くかたちになりました。
C君の家に来いということだったんで行ったら、被害者の方がいて、そのときは状況を把握できなかったので、誰かの友だちか彼女がいるのかなという印象を受けました。
初めのうちは、みんなでワイワイ話をしていたんですけど、そのとき僕が感じた印象はその女性の方の態度が普通とは違ったので、おかしいなという印象があったんですけど――なにせどういう状況か聞かされてなかったものですから――それで時間が経つにつれて、A君とかに危害を加えるようなことを命令されるようになりました。
やりたくはないんですけど、自分はA君に対して絶対的恐怖というのがありましたので逆らえず、初めはシンナーなんかをやって、ラリった振りをして、彼女に近づいて行ったりとかしてました。
最初は直接的になにをするつもりもなかったんですけど、最終的には、彼女を押し倒せとかいうような命令をされ、最後の最後まで拒絶をしたんですけど、今度はB君が怒りだしまして、早くやれと急かされまして、いやいや彼女を押し倒して危害を加えたんです。
危害というのは、性行為をするということです。被害者の方は最初はものすごく抵抗していました。ただ、やっぱり恐怖心がかなりあったと思いますんで、最後のほうは放心状態でした」
その場には、A、B、C、Dと、カズキといっしょに呼びつけられたヒロ(E)がいた。被害者を強姦したとき、カズキはどんな心境だったのだろうか。
「彼女は放心状態で、初めのうちは抵抗していたんですけど、最後のほうは目もうつろで、やっぱりちょっとおかしかったです。そのときは、自分はひどいことをしてしまったなという感覚でした。
それはもう、常にやっている最中にそれは感じましたので、できればもう(その場に)近づきたくないと思っていましたが、すべてにおいて命令されたことに逆らうと報復が待っていて、彼女にしているのと同じ行為を今度、A君たちから自分が受けることになります。
要するに、自分に対する責任逃れみたいなところはあったと思います」
カズキが2度目にCの家に行ったのはそれから1週間くらいあとのことである。
「最初の日、そういう行為があったあと僕は帰ってしまったので、その後のことはわからないんです。2度目のときは、前回とは比べものにならないくらいに彼女がB君とかと打ち解けていまして――僕にそういうふうに見えただけかもしれないですけど――話をしたり煙草を吸ったりしていたので、こういう言い方はおかしいんですけど、妙に安心感があったんです。
そのときはちょうど5分くらいいた程度だったんで、ちょっと(被害者を)見かけただけで、それ以上のことはわからないです。部屋にはB君、C君、D君。A君はいませんでした。僕は被害者の女性とは会話をしませんでした。被害者の女性に対しては、前回の件でどういう状況に置かれているかはある程度判断できたんで、不思議には思いました。
彼女は無理やりだまされて連れてこられたわけで、半ば監禁状態に置かれているはずです。そんな状況下に置かれているのに……。無理して(わざと打ち解けたふうに)やっていたのかもしれません」
被害者の女性は1週間、ずっとその部屋に監禁されていたことになる。それはカズキにも容易に理解することができた。

どうしてそれがわかったかというと、やっぱり着ているものも変わっていないですし、あと痣(あざ)とかが増えていました。殴られたりした痕(あと)が増えていたので、状況的に見てそのままに置かれていることを察知しました。
最初に連れてこられたときから続けて暴力を受けていたということだと思いました。逆にそれが彼女をああ(わざと打ち解けたふうに)させたのかもしれません。けっきょく逆らっても危害を加えられるだけなんで、その場の流れに合わせて。僕はそう受け取りました」

警察に駆け込もうかとも思ったが……

3度目に行ったときはどんな状況だったのだろうか。
「彼女が逃げないように見張りを頼まれたんですけど、2度目に行ってから1週間か1週間ちょっとくらいあとで、1989年12月中旬だったと思います。A君の命令でした。そのときは、A君が上(暴力団)からの命令でいろいろとさせられていたという形でした。
3度目に行ったときは部屋にD君と彼女がいました。D君は同じ部屋で見張りをしていました。被害者の女性は2回目に行ったときとうってかわって元気がなくて、そのとき、初めて個人で会話らしい会話をしたんですけど、被害者の女性の方から『わたしはいつになったら帰れるの?解放してもらえるの?』と聞かれまして、僕もそれに対してどう答えていいものか、まして答えられたにしても答えていいものか困りました。
僕は『A君に命令されてやっていることなので、僕にはわからない』という答え方をしたんですけど、被害者の方はかなり気が滅入っていたみたいで――半月も部屋に閉じこめられているという、状況が状況なのでそれは当たり前のことなんですけど――日に日に疲れが増している感じでした。

部屋はもともと全部閉め切って、物が乱雑としているような状態は変化がなかったのですが、被害者の女性の体格や体型はやつれてきていました。食べる物もいちおう出していたみたいですけど、口にしていなかったみたいです。
彼女は、いつも敷きっぱなしの布団の中に座っていたり、横になっていたりしていました。そういう女性を見て、まずいちばん最初に率直に思ったのは、こんな状態をいつまでも続けられるわけはないんで、いつになったら(A君たちが)彼女を解放するのかということでした。
僕は、最初にいっしょにC君の家に行った友だちと警察に駆け込むかという話までして悩んだんですけど、けっきょくお互い最終的に出てくる言葉は、そんなことしたらタダじゃすまない、自分たちが今度は同じ目にあう、と。そんな恐怖のほうが大きくて、けっきょくはなにもせずズルズルとかかわっていったんです。
警察に通報したことがバレたら、A君に殺されるかもしれないと思った。逆にそれでもいっしょにいたのは自分にとって都合のよい部分があったんだと思います。いっしょにいれば怖いものはない。そういう気持ちもあって、いっしょにいたと思います」
1988年12月末、女子高校生を監禁してから1か月以上も経過していた。そのころカズキはAらと距離を置こうとしていたのだが、再度呼び出されている。なによりカズキは、「監禁」に少なからず自分が関与してしまっていることに恐れをなしてしまっていた。

「僕が距離を置こうとしていることを、彼らは気に入らないみたいで、僕の職場まで電話してきたりとか、いやがらせの電話を家にまでしてきて、とにかく一度来いと言われて、それで行ったんです。そのときはB君、C君、D君がいました。
被害者の女性は3回目に行ったときと比べて、傷が増えていました。B君が女性ともめているような感じで、なにか彼女に問い詰めていたのを覚えています。詳しい内容まで覚えていませんが、彼女がなにか言ったことが気に障ったようで、彼女を手で殴ったり、蹴ったりしていました。横で見ているのが本当につらいくらい、暴行を加えていました。彼女は泣きながら謝っていました。
僕はこのままこの人たちとかかわっていたら、とんでもないことになってしまうという――自分本位な考え方なんですけど――頭が先でしたが、そのときも彼女に暴力を加えるように命令されましたが、僕はいやで最後まで拒絶していました。
するとそれが気に入らないみたいで、今度は僕のほうに矛先が向きかけたんですけど、その日はそれ以上のことはなくて家に戻りました」
以来、カズキはCの家に立ち寄っていない。実家からも離れた。
「A君から逃げたいという気持ちが先だったので、家も離れて住み込みで仕事を見つけて、ちょっと離れた所に住んでいました。そのあいだも被害者の方のことは気になっていたんですけど、友だちからの連絡で彼女を帰したということを聞いて――自分の目で見て確信したわけじゃないんですけど――半分安心していました。
それとは逆に、あの状態で本当に帰せたのかなという疑問は半分ありましたが……。
友だちからその連絡があったとき、僕のことをA君たちが血眼になって探している。気をつけろという警告めいたことも言っていました。いつ(A君たちが)来るんじゃないかと恐怖心がよりいっそう大きくなりました」

殺されたと知ったときは呆然とした

結果的に被害者の女性は無惨な殺され方をされる。事件を知ったのはいつで、逮捕されたときはどんな状況だったのか。
「1989年の3月でした。住み込みで働いていまして、仕事から戻ってみると、事務所のおばさんから『あんたが住んでいた所のことをテレビでやっているわよ』と聞いてニュースを見ました。そこで初めてそういう結果になってしまったことを知りました。
テレビでは、ずっと監禁した挙げ句に死んでしまったからドラム缶に入れて放置したという報道でした。いちばん最初に感じたのは、とにかく信じられなくて――半信半疑ではあったんですけど、帰したということをどこか信じたいというのがあったので――ニュースを見たときは、ただ呆然とするだけで、被害者の方の写真が出たときに本当なんだと実感しました。
こんなことあとで言っても仕方ないんですけど、結果としてこうなってしまうんだったら、友だちと相談したときに警察に行っていればという後悔ばかりが頭の中をよぎって、その日からずっとその毎日でした」
友達と警察に駆け込もうというほかに、なにか警察に伝える方法はなかったのか。
「チャンスは一度だけありました。ちょうどそのころ、僕の家の近くのマンションで母子殺人があって、刑事が聞き込みで家に来たんです。僕がちょうど家に戻ったときにいろいろ聞かれたんですけど、そのときに僕は言ってしまおうと、『刑事さんに話したいことがあるんですけど……』と持ちかけたら、自分たちは母子殺人の件で動いているので、相談があるなら少年課に行ってくれと言われたんです。
無理やりでも話していれば……おそらく話していれば、聞いてはくれたと思うんですけど、話を聞いてくれていれば……責任逃れになりますけど、そのときが一番のチャンスでした」
テレビで事件を知ってから、どんな日々をカズキは送ったのだろうか。
「とにかく、被害者の方に対して申し訳ないという。自分を責めても責め足りない。自分もこの目で(被害者を)見ていますから……。仕事もあまり手につきませんでしたが、だからといってなにもしないわけにもいかないですから、それはまた逃げることになりますから、いま自分がやらなきゃいけないことをとにかくやっていました。
警察が来たのは、事件をニュースで知ってから2週間くらいあとです。職場に来ました。そのときは僕は建築の仕事をしていたんですが、会社の社長と刑事さんらしき人が3人くらい来て――そのときは刑事だとわからなかったのですが――話をして、いったん帰ったんです。そのあと、さっき来たのは刑事さんだと社長の口から聞きました。
今回の事件のことで君を逮捕しに来たが、仕事もきちんとして、住まいもはっきりしてるので、もう少し捜査がはっきりしてから改めて来るということなので、そのときはそのまま仕事を続けてくれということでした。けっきょく、逮捕されたのは4月にはいってからでした。警察から取り調べをしたいと呼ばれまして、その場で逮捕されたのです」
カズキは3日ほど警察の留置所に身柄を拘束されたあと、送検され事情聴取を受けた。その後は家庭裁判所に送られ、身柄は鑑別所に移送された。鑑別所生活を1か月経たのち家裁で審判を受け少年院送致となった。処分は一般短期処遇で、約半年間、長野県内の少年院で過ごすことになった。

半年間の少年院での生活

「審判のときに裁判官は、まず事件の社会的影響を説明しました。そして、当時僕は夜学に通っていたんですけど、これからもそれを続けることを約束するという条件で短期の少年院にするということを言い渡されました。主犯の4人は家庭裁判所から検察に逆送致されたことはあとから知ったのですが、詳しいことはまったく知りませんでした。
鑑別所にいるときに新聞とか読めるんですけど、僕に関しては事件についての記事を一切切り抜かれたり、マジックで塗りつぶされた状態で手元に来るので、事件については捕まってからわからない状態だったのです。
少年法についての知識は、鑑別所があって少年院がある、程度の知識だったと思います。よほど悪いことをしたら、少年院に送られると。事件によっては大人と同じ刑事裁判を受けることは知りませんでした」
少年院での生活はどんなものだったのか。
「短期の少年院送致となりましたが、家裁ではどこの少年院かは言われませんでした。そのとき、少年院は刑務所みたいなイメージがありましたから、やっぱり自分のしてきたことの重大さを改めて認識しました。でも、仕方のないことだと思いました。
少年院に送られ、初めは個室に入れられ、少年院での生活の仕方のマニュアルをもらいました。少年院の生活に慣れるための個室という感じでした。その部屋には鍵がかかります。
一人だけで、とにかくいちばん考えたのは、被害者の方のことばかりです。少年院に送られてしまったことのショックよりも、自分のしてきたことのショックが大きかったです。
個室で一人でいる状態は、鑑別所でも一人だったので初めてではないですが、鑑別所と比べてぜんぜん違います。自分がいるところは少年院だという頭もあるんでしょうけど、そういう意味も含めて考えることがたくさんあって、時間が経ち、日にちが経つにつれ、本当に自分がそういう所に送られたんだということを実感できるようになりました。
最初は、あまりにも自分のしてきたことがすごすぎたんで、どうしてそこに自分が関係してしまったのかを認識するまでに時間がかかりましたが、まわりになにもない少年院の中で一人で考え抜くうちにわかるようになりました。
ひとりで考え抜くのはつらいことではありませんでした。被害者に与えてしまった苦痛を考えれば、僕のつらさなんてたいしたことないと思いましたから……」
カズキが処遇されていた少年院では仮出院が近づくと、老人病院に行って寝たきり老人の介護を手伝ったり、街に出て一般の工場の労働をするプログラムになっている。ボランティアではなく、そこの労働者とともに働くのだ。監視はつかない。少年院から一人で出かけていって、一人で帰ってくる。
「一般の人と混じって仕事をしたときの気持ちは変なもので、うれしかったです。やっぱり社会に触れられているという実感がありましたから。いくら(少年院の雰囲気が)開放的といっても自由がないことに変わりはなく、社会と隔絶しているので、工場で働くと、1日も早く少年院を出て、早くこういうふうに自分の仕事を見つけて働きたいという気持ちが高くなりました。
規則ですべて日課が決められている少年院の生活は最初はとにかく苦しかったです。いままで自分のやりたいことをやりたいようにやって、好き勝手なことをしていたのに、少年院は自由がないですから、苦しかった。処遇期間の半年間というのは僕にとっては長かったです。
普通に生活していたら半年は――人にもよるでしょうけど――そんなに長い期間ではないと思いますが、僕にとっては大げさになりますけど10年くらいいたんじゃないかという感じがしました。でも、それくらい一日一日に濃いものがありました。
ただ、のんべんだらりと暮らすのではなくて、その日に決められた課題があって、やらなくてはいけないことがあって、とにかく自分はそれを一生懸命やるしかないんです。初めはいやいややっていたんですけど、いま自分がやらなくてはいけないのは、ここで与えられている課題をこなすことだと思い、やりました。僕のいた時期は、まわりのみんなが協力してやるという雰囲気がすごくあったので、非常に良かったと思います。
ほかの少年院はどうかわかりませんが、僕のいた所は課題を自分で考えて工夫をしてやらせる方針だったので――もちろん、初めは命令みたいな形になるんでしょうけど――自分のやる気を大切にしてやることができました。
それがいまだにいい面として出る場合もあって、多少、苦しいことに直面しても自分はあそこに行って、あれだけの思いをして半年間我慢してやってこれたんだから、やれないことはないんじゃないかという思いに持っていけることがあります。
仕事でつらいことがあったとき、悩みごととか、自分が逃げだしたいことがあった時、そのときは少年院の生活を思いだします。あのときのことに比べればぜんぜんたいしたことないと。それに、少年院に入るまでは、相談する人もいなくていつも自問自答でした。ある意味で、あそこに行ったことで全部だせて楽になりました」

17歳で卒院し、被害者の供養に

カズキが少年院を出院したとき、彼は17歳になっていた。カズキが卒院後すぐにおこなったことは、被害者の供養だという。
「被害者の女性については、少年院にいるとき以外でも忘れたことはないので、すぐお寺に行って供養しました。そういうことだけが気掛かりだったので、まず最初にやらなくてはいけないと思っていました。やってどうなると人に言われればそれまでですが、僕ができるのはそれくらいしかなかったんです。
お寺は被害者のお墓のあるお寺ではありません。被害者のお墓はわからないのはもちろんですが、きっと行けないと思います。だからといってなにもしないわけにはいかないので、自分なりに考えて自分なりにしたんです。
供養の時、被害者の女性に対して僕は謝りました……。助けてあげられなかったことを、少なくとも助けられるいちばん近い位置にいたのですが、にもかかわらずそれをしなかったことを……。
僕に『いつ帰れるの?』と彼女が聞いたときに、答えられなかったことに当時の僕がすべて象徴されていると思うんです。あそこで答えられるだけの勇気があったら、おそらく警察に行っていたと思います。ですが、自分だけを守ることしか考えていなかった。
いま、口では助けてあげたかったとか、警察に行こうと思っていたとか言えますけど、実際に行動に移していなければなんの意味もないことです。
とにかく、僕がこれから生きていく上で、いちばん大事なことは自分がやってしまったことを忘れてはいけないということです。事件を起こしてきたような自分であってはいけないということです。
供養したときにそれを約束しました。どんなことをしても供養にはならないかもしれませんけど、それを守るしかないんです。それだけです。いままでしてきたことの悪いことの分、一生懸命やっていくしかないと思っています」

被害者のことを思わない日はない

被害者のことを思わない日はない、とカズキは言う。いつも脳裏の真ん中あたりに重くのしかかるように、被害者の言葉と表情が蘇る。
「『わたしはいつ帰れるの?』と聞いたときの被害者の方の口調と顔が……忘れられないです。それに、彼女はものすごい暴力を受けていましたんで、そういったときの側面もいまだに忘れられないです。この8年間片時も忘れていないです。忘れたことは一度もないです。忘れてはいけないことですし、忘れようと思っても忘れられないことだと思います。
毎日仕事をしていて、不意に思いだすときもあります。やっぱりドラマなんかで似たようなシーンを見たりすると、自分にとって彼女の言葉の響きは衝撃的なことだったので、瞬時に昔に引き戻されます。あと、似たような事件が起きたときとか、若い人の犯罪を聞いたときも思いだします。
思いだすことは……変な言い方ですが、思いだすということは悪いことではないと思います。それによって僕の原点に戻ることができて、自分ががんばって生きなければいけないと思うことができますから。
もちろん、それは苦しいことですが、自分がしてきたことの苦しみだし、被害者の方はそれに比べられない苦しみを味わっているわけですから、それに比べたらたいしたことないと思うのです」
カズキは現在、事件当時の友人や知人とは一切連絡を絶っている。親とも絶縁に近い状態だ。住んでいた街に立ち寄ることもしない。そうでなくとも、忌まわしい自身の過去はカズキを絶対に解放することはない。そう願いたい。
■藤井誠二(ふじいせいじ)
1965年愛知県生まれ。高校時代より社会運動にかかわりながら、取材者の道へ。著書に『殺された側の論理』(講談社プラスアルファ文庫)、『「少年A」被害者遺族の慟哭』(小学館新書)、『体罰はなぜなくならないのか』(幻冬舎新書)、『沖縄アンダーグラウンド売春街を生きた者たち』(集英社文庫)など多数。愛知淑徳大学非常勤講師として「ノンフィクション論」を担当。ラジオパーソナリティやテレビコメンテーターも務める。


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