「絶対に通勤電車でうつされたと思うんですよね…」
東京都内で働く30代女性のAさんは、こう振り返る。
10月、Aさんは風邪をこじらせ咳喘息(せきぜんそく)にかかり、約2週間にわたり咳が止まらない状態が続いた。
幸い、会社は在宅勤務が可能だったため出社せずに勤務を続けられたが、息をするだけで非常に激しい咳が出る状態が続いたため、「もし在宅勤務ができなかったら、(電車でも職場でも迷惑になるので)長期間休まなければならなかったかもしれない」と恐ろしくなった。
Aさんは「もっとしっかり体調管理していれば…」と悔やむが、たとえば新型コロナウイルスや、流行期を迎えたインフルエンザは感染力が強く、いくら気をつけていても、電車や職場でうつってしまうこともあるだろう。
一般的に、通勤中や勤務中のケガは労災と認められるケースが多いが、新型コロナウイルスやインフルエンザの場合はどのように扱われるのか。また、感染によって旅行などプライベートの予定をキャンセルせざるを得なくなった場合、会社に損害賠償を求めることはできるのか。労働問題に詳しい河野翔平弁護士に聞いた。

インフル・コロナで労災認定は難しい

「基本的に、通勤電車や職場でインフルエンザ、新型コロナウイルスに感染しても、労災扱いにはならないと考えられます」
河野弁護士がこう指摘する背景には、因果関係の証明の難しさがある。
「まず通勤電車の場合、『業務起因性』(業務によってその災害が生じたこと)の証明が非常に難しいです。つまり、どこで感染したかの特定がほぼできないため、業務起因性がほとんど認められない可能性が高いということです。一方、ケガの場合は物理的にその場で発生しているため、業務起因性が証明しやすくなります」
職場の場合も、「業務による危険が現実化したかどうか」が問題となる。たとえば近くの席に具合の悪そうな人がいて、その後に自分がインフルエンザや新型コロナウイルスを発症したとしても、別の場所で感染した可能性も否定はできない。
よって、「一般的な感覚からすると、近くの席に具合の悪い人がいたからインフルエンザや新型コロナウイルスに感染したというだけで労災が認定されるのは難しい」と河野弁護士は指摘する。
なお「例外的なケース」として、医療従事者や介護従事者など、業務上感染する危険性が高い職種の場合は、インフルエンザや新型コロナウイルスであっても労災の対象になりやすいそうだ。

近くの席の人が「ゲッホゴホ」…会社の安全配慮義務は?

通勤電車や職場での感染が労災と認められるのは難しいとして、近くにゲッホゴホと咳をしているなど、インフルエンザや新型コロナウイルスに感染した疑いのある人がいれば不安に感じる人がほとんどだろう。まして、プライベートで旅行などの大事な予定を控えている場合はなおさらだ。

職場では、時に体調不良を押して出勤を続ける従業員もいるが、会社に安全配慮義務(労働契約法5条)はないのだろうか。河野弁護士が説明する。
「現在、季節性インフルエンザ(通常毎年冬に流行し、多くの人が一定の免疫を持つウイルスによるインフルエンザ。以下「インフルエンザ」)や新型コロナウイルスは感染法上の5類に分類されており、いずれも法律上の外出自粛義務がありません。しかし、多くの企業では、感染力の強さを考慮して、就業規則に出勤停止の規定が設けられています。
こうした規定のある企業では、社内にインフルエンザや新型コロナウイルスの感染者が発生した場合、『感染者以外の従業員』に対する安全配慮義務が生じやすくなります」
具体的に会社が講じるべき対策としては、就業規則に従い当該従業員に出勤停止を指示すること、治癒の確認のために陰性証明書の提出を求めることなどが考えられるという。
ただし、これはあくまでインフルエンザや新型コロナウイルスの感染が「確定」している場合の話だ。当該従業員が病院へ行っておらず、診断が確定していない段階で、体調が悪そうだというだけで会社に「出社を禁止する義務」があるかと言われると「かなり微妙なライン」(河野弁護士)になる。
「後々のトラブルを避けるために、就業規則に体調不良時の対応を記載しておくことが肝要です。ただし、体調が悪いというだけの状況に対して厳しい決まりを設けすぎると、かえって混乱を招く可能性もあるため、注意が必要です」(河野弁護士)
なお、会社は「体調の悪い従業員」に対する安全配慮義務も負っており、出社できない状態の人を無理やり出社させれば、当然ながら「安全配慮義務違反」となる。

プライベートの予定がキャンセル…損害賠償は認められる?

仮に、会社の安全配慮義務違反によって、職場でインフルエンザや新型コロナウイルスに感染し、旅行などプライベートの予定のキャンセルを余儀なくされた場合、キャンセルによって発生した損害の賠償を会社に求めることはできるのか。河野弁護士は「損害との因果関係を証明できれば、可能性としてはあり得る」という。

「会社が適切な措置を怠らなければ、その損害(感染、予定のキャンセルなど)は発生しなかったと、社会通念上言えるかどうかが問題となります。
仮にこの因果関係が肯定されれば、次に、発生した損害の賠償が認められるかが焦点となります。通常、インフルエンザや新型コロナウイルスに感染すれば、旅行などはキャンセルせざるを得ないため、損害が賠償される可能性も出てくるでしょう」(河野弁護士)
賠償の対象は「キャンセル料などの実損害」「精神的損害(慰謝料)」が考えられる。まず前者については、交通事故で旅行のキャンセル料の賠償が認められた裁判例が複数あり、インフルエンザや新型コロナウイルスの場合も同様に認められる可能性がある。
次に後者については、キャンセル料の賠償などで金銭的に補償されると、慰謝料は支払われないケースもあるという。仮に認められたとしても、金額は少額にとどまるケースがほとんどだと河野弁護士は指摘する。
「たとえば過去には、結婚式6日前に交通事故に遭った人が、結婚式の延期および新婚旅行のキャンセルをしなければならなくなり、実損害(新婚旅行のキャンセル料、結婚式延期のわび状作成・郵送費用など)のほかに、結婚式を延期せざるを得なかったことによる精神的損害についての慰謝料30万円が認められたケースがありました(大阪地裁平成16年(2024年)12月7日)。
結婚式という人生の一大イベントがキャンセルされたケースにおいても30万円だったこと、新婚旅行の延期についての慰謝料が認められていないことをふまえると、通常の旅行の場合、慰謝料は認められない可能性が高いのではないでしょうか」(河野弁護士)
なお、会社ではなく「体調不良を押して出勤した従業員個人」への請求も考えられるが、資力の問題から会社に請求するのが一般的だ。
結局のところ、通勤中や職場でインフルエンザや新型コロナウイルスをうつされても、労災として扱われる可能性は極めて低く、プライベートの旅行がキャンセルされても、必ずしも損害賠償が認められるとは限らない。
企業には安全配慮義務があるとはいえ、最終的に自分の身を守るのは自分自身だ。同時に、自身が体調不良の際には、周りへの配慮を欠かさない思いやりが大切だろう。


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