東京都杉並区の住宅街で9月30日、築57年の住宅を支えていた擁壁が倒壊し、がれきが隣のマンションになだれ込む事故が発生した。約1か月半が経過した11月13日現在、事故現場はビニールシートがかけられ、防護用の板と柵で応急処置が施された状態のまま保存されており、今なお事故の状況をうかがい知ることができる。

杉並区は1984年に擁壁に亀裂があったことを察知し、それ以降、たびたび、安全対策をとるよう行政指導を行っていたという。
しかし、行政指導はあくまでも任意の協力を求めるものにすぎず、強制性はない。
行政は、事故が発生する前に、未然に防ぐべく、強制力を伴うなんらかの措置をとることはできなかったのか。また、私たち一般市民は、もし本件と同様に崩壊しそうな擁壁等があり事故が予期されるとき、どのような手段をとることができるのか。
建築関係紛争に詳しい田渕朋子弁護士に聞いた。

「擁壁」に関する法規制はどうなっているのか?

現行法上、擁壁については、どのような規制が設けられているのか。田渕弁護士は、そもそも擁壁の設置をしなければならない主なケースとして、以下の3つを挙げる。
  • 建築物ががけ崩れ等による被害を受けるおそれがある場合(建築基準法19条4項)
  • 都市計画区域等での開発許可の要件として、地盤の沈下、崖崩れ、出水その他による災害を防止するための措置の一環(都市計画法33条7号)
  • 宅地造成等工事規制区域内において行われる宅地造成等に関する工事で、宅地造成等に伴う災害を防止するための措置の一環(盛土規制法13条)
そして、各法律は、擁壁を設置する場合の申請手続も定めている。
田渕弁護士:「擁壁の高さにもよりますが、擁壁を設置する際は基本的に、建築基準法では確認を受けなければならず、都市計画法と盛土規制法では許可を受けなければなりません。
特に、盛土規制法では、土地の用途にかかわらず、危険な盛土等を包括的に規制しています。これは2021年に発生した熱海市の土石流災害等を受けて2022年に改正され、2023年に施行されたものです。そして、杉並区は全域が2024年7月31日に規制区域に指定されています。
災害のおそれが大きいと認められる場合には、都道府県知事が改善命令を発することができ(同法47条)、それに従わない場合には1年以下の拘禁刑または300万円以下の罰金に処せられます(同法56条)」

なぜ強制的な手段がとられなかったのか

本件では、倒壊した住宅の所有者に対する区の働きかけは、強制力のない行政指導、つまり「お願い」にとどまっている。しかし、所有者は40年以上にわたり従うことはなかった。
都知事が法令に基づき上述の改善命令等を行うことはできなかったのか。
田渕弁護士:「盛土規制法の改正前から改善命令等の規定はありました。しかし、それらが実際に機能していたかというと、残念ながらそのような運用にはなっていませんでした。
同法は2022年に改正されましたが、これは、熱海市の土石流災害等を受けて、隙間のない規制をすることで危険な盛土等の発生を防止しなければならないという意識のもとで行われたもので、改正後は行政の盛土等に対する意識も変わっていくことが期待されています。
しかし、改正法は2023年5月26日に施行されてから間がなく、杉並区は全域が2024年7月31日に規制区域に指定されたばかりでした。
本件が発生した2025年9月30日の時点では、まだ改正された盛土規制法の問題意識が浸透しておらず、既存の擁壁に対して、災害のおそれが大きいとして、それまでの『お願い』ベースから大きく踏み出す改善命令の発出まで行うのは難しかったのではないでしょうか。
盛土規制法が熱海市の土石流災害等を受けて改正されたように、今回の事故をきっかけにして、盛土規制法を活用し危険な擁壁等による事故が一つでも多く防止されるよう、改善命令等の発出をためらわず行えるような運用が望まれます」
ただし、もし改善命令等が発出されていた場合でも、次の段階の問題として、相手方がそれに従わない場合に強制的な手段をとり得るかどうかが問題となるという。
田渕弁護士:「行政代執行といって、行政が対象者の代わりに工事を行い、その費用を義務者から徴収する方法が考えられます(行政代執行法2条参照)。
この場合、義務者に資力がないと、費用の回収が困難となる問題があります。しかし、住民の安全を守ることも行政の重要な使命ですから、これも先例を作っていってもらいたいところです」

災害を防ぐため住民が事前にとりうる手段は?

もし、私たちの身近で、崩壊しそうな擁壁等があった場合、住民の立場として、被害を未然に防止するため、どのような手段をとることが考えられるか。
田渕弁護士:「隣地の方であれば、土地の所有権に基づく妨害予防請求ができます。
行政に対し『義務付け訴訟』(行政事件訴訟法3条6項1号)を提起することも考えられますが、原告となるための資格として『法律上の利益』が必要です。
ただ『住民である』というだけではこの要件を満たすことは難しいでしょう(同法37条の2第3項、9条2項参照)。
もちろん、行政の担当部署に『危険な擁壁等がある』と通報することや、行政に改善指導、改善命令、行政代執行等を求めていくことはできます。
司法(訴訟)に訴えることができない場合であっても、住民がこうした手法で、改善指導にとどまらず、改善命令の発出を促すことや、行政が行政代執行の費用負担を厭(いと)わない姿勢を示していくことは、今後の盛土規制法の適切な施行にも資すると思います」


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