「安楽死が法制化されると弱者が犠牲になる」は本当か? 「滑り坂」論証の“論理的誤り”
10月15日、ウルグアイで、終末期の患者が安楽死を選ぶ権利を認める法案が賛成多数で可決された。南米で安楽死が法制化されるのは、ウルグアイが初だという。

日本でも安楽死の法制化を求める意見はたびたび発せられている。一方で、合法化されたことを契機に徐々に条件が緩和されていき、障害者や要介護者などの社会的弱者が「安楽死を受けるように」とプレッシャーをかけられる、「滑り坂」と呼ばれる事態に懸念を抱く議論も多い。
しかし、安楽死の法制化と「滑り坂」の結び付きは必ず起こるのだろうか。本稿では、海外の安楽死制度について研究する盛永審一郎氏(小松大学大学院客員教授、富山大学名誉教授)が、「滑り坂」論証の欠点や安楽死批判論が人々の「自律」を軽視している問題を指摘する。(本文:盛永審一郎)

批判の対象は「安楽死の本質」か「法律の運用」か?

安楽死を批判する観点は「安楽死が持つ本質の問題」と「安楽死法の運用の問題」のどちらにあるのだろうか。
どうも安楽死批判を展開する人々が書いている記事を読むと、運用の問題であるらしい。たとえば、先日に出版された学会論文集『生命倫理』(VOL.35 NO.1,2025 SEP.)の巻頭言「安楽死は逸脱する」がそうだ。
これらの批判は、安楽死を容認した国では「安楽死の要件が緩和されていく」とか、「逸脱している」という。もし本当にそうだとするなら、逸脱の事例を、法的に厳しく規制すればよいだけである。
さらに、これらの批判をする人々が「安楽死を法制化した国で起こっている逸脱の事例」としてあげているのは、単なる風聞の事例にすぎない。その最たる例が、オランダの「コーヒー事件」である(※)。
※事前に安楽死の意思表明書を残していたものの認知症により意思確認ができなくなった女性に対し、医師が睡眠薬入りのコーヒーを飲ませ家族が押さえつけて注射で安楽死を実行した、と報道されている事件。報道は誇張された情報を基にしている、とも指摘されている。

これらの事例を挙げている人たちの記事は、事件の真相に関する一次資料としての裁判記録等、または二次資料(たとえば拙著『認知症患者安楽死裁判』(丸善出版、2017年))を全く読まずに、単に新聞の記事、しかもオランダではない他国の新聞記事をベースに書いている。
また先述の巻頭言「安楽死は逸脱する」のなかでも、根拠として挙げられている「国連障害者権利委員会報告書」の報告内容が正しいとは限らない。
なぜなら、2019年の「ランベール事件」(※)においても、国連障害者権利委員会はフランス国務院(最高裁)の決定に反して、「チューブの取り外しに反対する」と事件に介入を行っている。そのことを無視して「国連報告書」だから正しい、と主張することは問題だ。
※2008年に交通事故で重度の脳損傷と四肢麻痺を負い、昏睡状態が続いたフランス人男性ヴァンサン・ランベールをめぐり、配偶者と両親が安楽死の是非で対立し裁判へ発展した事件。2019年、フランス最高裁が延命治療の中止を認めた。
さらに同巻頭言ではカナダの安楽死に対する「強い懸念」をオランダをはじめとする安楽死国全体に広げているが、これは論理的誤りの初歩である。そもそも、本当に逸脱が起きているのか、現地へ行って調査すべきだろう。
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オランダにおける安楽死の推移(検察が告訴した認知症患者安楽死事件・グラフは著者作成)

「安楽死法を一度認めると歯止めがきかなくなる」?

他方、安楽死を批判する観点が「安楽死の持つ本質の問題」にあるとすれば、本格的に論戦しなければならない。しかし、安楽死を批判する論者たちがその理由として挙げるのが、いわゆる「滑り坂論証」である。
要するに、本人の自発的な要請による安楽死を一度認めると、本人が要請していない(非自発的)、さらに本人が拒否している(反自発的)安楽死――しかし非自発的安楽死や反自発的安楽死は殺人であるので認めることはできない――まで認められてしまうので、自発的安楽死も認められない、という論証である。
現代ホスピスの生みの親であるシシリー・ソンダース氏は、1997年日本訪問の際のNHKの収録番組において「安楽死法を一度認めると歯止めがきかなくなる」と語っていた。なぜなら、このような法律が存在することは気の弱い人間にとって「自分は死を求めた方がよいのでは」と精神的に負担を感じさせることになるからだという。

そうしてソンダース氏は、あらゆる知識を用いて緩和ケアを行い、苦痛を取り去る施設、ホスピスを設立した(しかしそれでも残念ながら、やはりがん末期の苦痛を取り去ることができない患者が10%ほどいることも現実の事実である)。
ソンダース氏の言葉にあやかって、「死ぬ権利や安楽死法を法制化すると、弱者や障害者が死へと駆り立てられることになる」と主張する人は多い。しかし、ソンダース氏には敬意を払うが、安楽死を法制化することと、弱者や障害者が死へと駆り立てられるということとは、直接には関係がない。
安楽死を合法化するとは、安楽死を要請する患者の主体的・自律的な判断を、プライバシー権として尊重するということである。したがって患者の自律的な判断がプライバシー権として尊重されるのであって、非自発的な安楽死が行われることとは全く異なる。
にもかかわらず前者から後者への移行を懸念する人たちは、かつてナチス・ドイツが掲げたスローガン「健全な家族・健全な子ども」が賛美されると、「治療の見込みのない患者には恩寵(Gnade)の死を施すことを許可する」(T4計画、1939~42年)という障害者安楽死計画へと滑っていった歴史的事実を思い浮かべるからであろう。
日本でも1948年の優生保護法の成立が「不良な子孫の出生を防止する」へと滑っていった事実があるから、なおさらである(ようやく2024年に最高裁で賠償が認められた)。
しかし、この「滑り坂のおそれ」に対しては、すでにドイツの哲学者ミヒャエル・クヴァンテが、次のように論理的歯止めを置いている(詳しくは、拙著『世界は安楽死をどう考えどう迎えるか』(東信堂、2025年)を参照されたい)。
自発的安楽死と非自発的安楽死のケースにおいては、2つの相違する価値基準が問題であるので、私が主張する次の立場をとることができる。それはすなわち、人格個性(私格性Persönlichkeit)に基づく基準が原理的に把握することができないところでだけ、客観的基準は用いられるという立場である。
換言すれば、ある患者が自分の生を続けようと自律的に決定するとき、そのとき客観的基準は用いられてはならない。しかし、ある患者が自律的に決定することが原理上できるが、事実上は自分を表現しないときでも、この客観的基準は用いられてはならない。

この立場にとっての根拠は一方では、人格的自律に対する尊重の原理である。また他方では、自分自身の生を終結させられてもよいとまではいわないいかなる人格も自分自身の生存に、承認されるべき価値を認めるという仮定である。
※M.Quante,Personales Leben und menschlicher Tod,suhrkamp,2002,S.252(高田純監訳、『ドイツ医療倫理学の最前線-人格の生と人間の死』、リベルタス出版、2014、225頁)
こうしてクヴァンテにおいては、非自発的安楽死に対しても論理的歯止めが置かれるのであり、この歯止めを社会が監視すれば、論理的に「滑り坂」は起こらないことになる。
また、オーストラリアの生命倫理学者ヘルガ・クーゼは「安楽死の処置の乱用をふさぐ最善の方法は、医療における生命を終わらせる決定を透明性のあるものにすることであり、そのためには、社会の監視が機能するような制度を整備することである」と述べている。

滑り坂を防ぐためには「自律」を重視する必要

以上のようなクヴァンテやクーゼの指摘にもかかわらず、滑り坂のおそれを消すことができないとしたら、それはどうしてだろうか。原因は、患者が自らの「生の質」が低いとする人格個性(私格性)に基づく(主観的な)価値基準を、社会や他者が客観的基準としてしまうところから生じている。
私格性に基づく基準とは、患者自身の「批判的利益」、各人の個性に適った「一貫した全体的な創造的物語(an integral creative narrative)」(ロナルド・ドゥオーキン)、「個人の人生・生活の一貫性」(バルセロナ宣言)、「自己の固有の人生観や個人的なアイデンティティ」(プリティー判決)、「私格性」(クヴァンテ)に基づく基準である。
それに対して、客観的基準は、「有意味な生」という原則と密接に関係している。
ここで鍵となる表現は「有意味な人生」である。この表現の使用には、意味のない人生、つまり法の平等な保護に値しないほど質に欠ける人生もあるという概念が暗黙のうちに含まれている。
いずれにせよ、最高裁判所がウエイド事件(※)で「意味のある人生」に言及したことは、生存不可能な市民の人生は意味がないことを明らかに示唆している。
※テキサス州が妊娠中絶を原則禁止とした中絶法を、アメリカ合衆国最高裁判所が1973年1月22日に違憲とし、「女性の妊娠中絶の権利はプライバシー権である」と判決を下した裁判。
意味がない理由は、おそらく、その人生が短い、つまり出生から長くても28日未満(しか生きられない)だからだろう。

しかし、もしこの事実がこれらの命から意味を奪うのであれば、同様の価値判断は、死にゆくあらゆる人の命から意味を奪うことになるだろう。そして、ある命が無意味であると認められれば、この命と同等の価値しかないと広く考えられている他の多くの命をその命と区別することは非常に困難になるだろう。
このことから、1973年以降、嬰児殺害が公認の慣習となっているのも驚くべきことではない。
※Grisez & Boyle, Life and death with Liberty and justice, Notre Dame,1979,p.172, 309.
レベッカ・ドレッサーは、このことを「生の質の判断という恐ろしい亡霊が頭をもたげ」と表現している。
※Rebecca Dresser, Missing Persons: Legal Perceptions of Incompetent Patients, Rutgers Law Review 46,no.2,1994,P.634.
以上のように、患者が判断する「生の質」の私格性に基づく基準が、「生の質」の客観的基準として合理的に捉えられるならば、同一の状況に置かれた生の質は低いとして非自発的安楽死へと滑る可能性をもつことになる。だから、クヴァンテは、個々の事情を無視する抽象的な「合理的決定」へと還元されない、「内容豊かな」自律概念が必要となる、と提唱している。
もう1つの重要な点は、事前指示の承認の基礎にある自律の尊重という原理を中心に据えるとしても、ここから、自律的でない患者の生命は本質上倫理的に中立と見なしてよいという結論を導いてはならないという指摘である。
このことを回避するために、まず、本書でこれまでにも幾度か要求してきたように、評価的な諸性質についての幅広い理論が前提となる。次に、このためには、合理的決定へと還元されない「内容豊かな」自律概念が必要となる。
…(中略)…そのような自律概念がなければ、意志能力をもたない患者、あるいは障害をもった患者の適切な取り扱いを保証することは困難である。
※Quante,上掲書、252頁。
さらにクヴァンテは、「自律の概念をできる限り内容的に充実させるために」、「その際に個人的な欲求と信念へ立ち戻ること」と指摘している。

※Quante,上掲書、163~4頁。
クヴァンテの説くこの自律とは、「形式的自律」(トム・ビーチャム)でも、「客観的自律」(エマニュエル・カント)でもなく、「人格的自律」、「個性的自律」であり、「個人的な願い」と「信念」に基づく自律である。

安楽死批判が「パターナリズム」に結び付く危険性

「安楽死が法制化されると弱者が犠牲になる」は本当か? 「滑り坂」論証の“論理的誤り”

オランダにおける認知症・精神疾患などの患者の安楽死推移(安楽死委員会報告書より・グラフは著者作成)

オランダでは2010年以降、精神的疾患を理由とした安楽死数も増加している。そのなかで知的障害者や自閉症スペクトラム障害のある人々に対する安楽死法の適応について疑問視する論文もあり、安楽死法が脆弱な患者グループの保護と権利にどのような影響を与えるかという懸念が指摘されている。
確かに少数の脆弱(ぜいじゃく)な障害者が死の危険にさらされる事態は防がなければならないが、ナチスの事例のように非自発的な安楽死へと自動的に滑っているわけではない。安楽死審査委員会は、問題が生じる都度に安楽死コード(実践指示書)の改定を行っているので、88%の国民が支持している安楽死法全体を揺るがすというものではないだろう。
ところが、こうした「脆弱性に対する懸念」を逆手にとり、知的障害者は「炭鉱のカナリア」のように、社会の問題に最初に直面する存在である可能性があるのだ――と得意げに述べる人たちもいる。
しかし、このような主張は、障害者を含む人間は自律的に意思決定できない存在だとみなすことにつながりかねない。それは、個人の死をパターナリズム(※)の支配下に置くことに他ならないだろう。
※子に対する親などの権威者、または医者などの専門家が、「本人の利益になる」という理由から、(判断能力のある)本人に代わって判断や意思決定を行うこと。
「脆弱な患者グループの保護のため」を大義として、同じく絶望的で耐え難い苦しみのなかに置かれていて、安楽死を切望している人から安楽死という手段を奪うというのは、あまりにも理不尽ではないだろうか。
さらに一言、蛇足かもしれないが述べておきたい。
現に日本では安楽死法がないにもかかわらず、弱者や障害者が死へと駆り立てられているのではないだろうか。着床前診断や人工妊娠中絶がほとんど自由に行われていることを考えれば、このことは明らかである。
この現実に存在している「弱者が死へと駆り立てられている問題」には目をつぶり、死の場面でだけ一層声高に「滑り坂」の危険があると論じるのは、やはり、現在の時点で生きているものの身勝手と思われないだろうか。私にはそのように思える。
■盛永 審一郎(もりなが しんいちろう)
小松大学大学院客員教授、富山大学名誉教授。研究テーマは実存倫理学、応用倫理学。著書に『安楽死を考えるために―思いやりモデルとリベラルモデルの各国比較』(丸善出版、2023年)、『終末期医療を考えるために―検証 オランダの安楽死から』(丸善出版、2016年)、『安楽死法:ベネルクス3国の比較と資料』(東信堂、2016年)、『人受精胚と人間の尊厳―診断と研究利用―』(リベルタス学術叢書、2017年)等


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