私たちが当たり前のように持つ「日本人」という意識。しかし、江戸時代までの人々は「国民」ではなく、藩の「領民」や村の「百姓」として生きていた。

明治維新後、新政府はバラバラだった帰属意識を統合するため、1872年に「壬申戸籍」を編製。すべての身分を登録し「日本人」を法的に創出した。
本連載では日本の「戸籍」とその歴史について、政治学者の遠藤正敬氏が解説。
第1回では、欧米列強に対抗するため、明治政府がなぜ1000年の時を経て戸籍制度を復活させ、天皇を頂点とする「国民国家」を築いたのか、その理由について取り上げる。

※この記事は遠藤正敬氏の書籍『戸籍の日本史』(集英社インターナショナル)より一部抜粋・構成。

明治維新で創出された 「国民」

一体、なぜ「日本人の証明」としての戸籍が生まれたのか?その理由を知るためには、何より「近代」における戸籍の出立から見ていく必要がある。
なぜここで「近代における」と限定を付けたかというと、古代日本にも戸籍制度があった(編注:645年の大化の改新後、670年に「庚午年籍(こうごねんじゃく)」、690年からは「甲寅年籍(こういんねんじゃく)」が編製された)からである。
それが有名無実になってから約1000年の時を経て、明治の新政府によっていわばリサイクルされたという点が、「戸籍の日本史」を語る上で何より重要だからである。

「新国家」建設の礎

260年余りにわたる徳川時代が滅び、日本は「明治維新」という新たな門出を迎えた。そこで「新国家」の建設の礎とされたのが、戸籍であった。
明治閏4(1871)年4月4日(当時は旧暦)、太政官布告第170号として最初の戸籍法が新政府によって公布された。
これに基づき、翌年から編製されたのが「壬申戸籍(じんしんこせき)」である(戸籍を編むことを「編製」と呼ぶ)。
「壬申」とはこの年の干支である「壬申(みずのえ・さる)」にちなんでいる。
この壬申戸籍は日本に居住するすべての身分、すなわち「華族、士族、神官、僧侶、平民」に至るすべての身分の者を戸籍に登録することで、「新国家」においてみなが平等な「日本人」となることを顕示するのが真の目的といえた。

おのれが「日本人」であるという意識は、今では当たり前のことのようにも感じられるかもしれない。だが、それを法的に、換言すれば可視的に生み出したのがまさにこの壬申戸籍であった。
これは日本の歴史始まって以来、はじめてのことといえる。
端的にいえば、江戸時代までの日本には「日本人」という概念はなかった。たしかに古来、日本列島に暮らす人々は、大陸からの渡来人も含めて事実上は「日本人」であったということはできる。
しかし、その人々が自らを「日本国民」であると法的にも社会的にも明確に自覚するようになるのは、やはり幕末から明治にかけてのことである。
たとえば、江戸時代の支配階級であった武士は、自分が仕えている藩の「家臣」あるいは「幕臣」というのが自己規定であった。
何より、江戸時代の人口の大半を占めていた百姓・町人は、その帰属意識は「国」ではなく「町」や「村」にあった。その「町」や「村」にしても幕府の直轄地(天領)や藩領であったわけで、そこで暮らす百姓や町人はみなその土地の「領民」でしかなかった。
また公家、僧侶、神官などにしても、朝廷、寺院、神社とそれぞれに帰属する対象が異なっていた。
このように明治以前の人々はそれぞれ領地や身分に基づいたアイデンティティを持って日本列島に生きており、「日本国民」という意識は限りなく希薄であったといえる。

近代国家の証しとしての「戸籍」

こうした幾多のアイデンティティの「寄り合い所帯」であった日本において「国民」の創出が必須となった契機は、他でもない「外圧」であった。
幕末に軍船とともに来襲した欧米列強と対峙することになった時、上記のように人々の帰属意識が分断した「日本」では勝ち目はない。

実際、すでに隣国の中国はそうした社会内の分断を維持してきた守旧性が災いし、アヘン戦争(1840年)でイギリスに敗れて以降、欧米諸国による主権と領土の侵食が続き、「半植民地」と化していた。
そうした危機的な東アジア情勢に鑑み、日本では、この国難を乗り越えるためには幕府や藩などという立場を超えて「日本国」として大同団結すべきであるという共通認識が武士や公家において生まれ、それは尊王倒幕運動という形で炎上していった。
そこで目指された「新しい国家」とは一つの権力、一つの権威の下に統合された「国民国家(ネイション・ステート)」である。
それは近代の欧米において勃興した概念であり、封建制を打破した、平等な「国民」という共同意識を支柱とするものである。
顕著な例でいえば、1789年に始まるフランス革命である。そこでは、国王夫妻をはじめ、旧体制(アンシャン・レジーム)の人間をとことん排除し、身分制も打破して「我こそはフランス国民」という共通のアイデンティティの下に新生国家を打ち立てた。
こうした劇的ともいえる「国民」創出の過程に近代国家を築く原動力があったということを明治新政府の為政者たちはしっかりと見定めていたはずである。

「国民の創生」に必要なツール

ただし、日本が「近代の国家」を築いていく過程には欧米と対照的な特色があった。
それは、君主制を廃止して政教分離に基づく国民国家を築いたフランスなどとは逆に、「日本」という国民国家を築くためのシンボルとして神話時代から存する君主、すなわち天皇をまつり上げた点である。
そこでは、天皇を「高天原(たかまがはら)」に始まる建国神話―それが依拠するのは「古事記」の世界である―に基づく「万世一系」の「現人神(あらひとがみ)」(その先祖は最高神・天照大神(アマテラスオオミカミ)である)と位置づけ、その天皇の威光の下にすべての人民が「臣民」として等しく包摂されるという物語が大々的に創り出されたのである。
こうした「国民の創生」に必要なツールとされたのが、すべての人民を一元的に管理する「国民登録簿」、すなわち戸籍であった。
それはまず、国内の人口を確定することにより徴税を徹底し、徴兵によって国民軍を作る「富国強兵」政策を実行していくという目的の上でも不可欠であった。

そして、戸籍に登録されることが天皇に服する「正しき臣民」の証しであるというイデオロギーを普及させることが、「日本」という「国民国家」の建設において肝要とされたことを看過してはならない。


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