しかし、それは歴史的には「復古」に過ぎない。
本連載では日本の「戸籍」とその歴史について、政治学者の遠藤正敬氏が解説。
第2回では、日本がなぜ東アジアの儒教的価値観から逸脱し、「夫婦同姓」という独自の道を選んだのか、その分岐点について取り上げる。
遠藤氏は「家を継ぐため」の手段として女性が婿を取るというのは「世界に類例がない」と指摘。
日本では他家からの「婿取り」は当然の慣習とされており、「家」の維持を優先するため、明治政府は「一家一氏一籍」の原則を確立。夫婦同姓を「常識」に変えていったという。
※ この記事は遠藤正敬氏の書籍『戸籍の日本史』(集英社インターナショナル)より一部抜粋・構成。
中国・朝鮮における 「姓」 の概念
孔子の『論語』には「其の鬼に非ずして之を祭るは諂なり」という言葉がある。ここで言う「鬼」とは自分の祖霊を指すが、自分と血縁のない霊を祭るというのは企みごとでしかないから、それはけしからぬという戒めである。
ゆえに、祖先の血統を子々孫々まで正しく伝えることが美俗とされる儒教倫理が根付いてきた中国、朝鮮では「異姓不養」という慣習が長く続いてきた。異姓、つまり血のつながらない他家から養子をとることを禁じるのである。
また、結婚についても、「姓」とは祖先を同一にした者という「血筋」を表わす記号であるから、女性が他家に嫁に行っても姓は変わらない。それゆえ、中国や朝鮮では古来より「夫婦別姓」が基本である。
さらに中国や朝鮮では同姓の者同士が結婚するのはタブーとされた。同姓、すなわち血族であると堅く信じられていたので同姓同士の結婚は近親婚として忌避されたのである。これを「同姓不婚」の原則という。
ただ、朝鮮では中国よりもはるかに姓の数が少ないので、「同姓不婚」を貫徹しようとすれば大半の人々が結婚できなくなってしまう。そこで朝鮮では、姓に加えて「本貫(ほんがん)」を同じくする者同士の結婚を禁止するという「同姓同本不婚」の原則へと緩和された。
本貫というのは朝鮮独特の概念で、祖先の出身地を意味する。したがって、同じ姓(金、李、朴……)であっても、本貫が違えば、それは別の一族であるので、結婚するのは問題ない。
この「同姓同本不婚」の原則は戦後も韓国の民法において規定されていたが、1997年に憲法裁判所による違憲判決を受け、2005年にこの規定は廃止になった。さらに韓国では2008年から家単位の戸籍そのものが廃止になり、替わって個人単位の家族関係登録制度となったことを付け加えておく。
日本の伝統は「夫婦別姓」だった
それでは日本における姓の問題について補足しておこう。かつて武家社会では夫婦別姓が慣例であった。たとえば、源頼朝に嫁いだ北条政子や、足利義政に嫁いだ日野富子の例をみれば明白であろう。もっとも、彼女らのように実際に姓を名乗っていた女性は珍しかった。
何しろ、そもそも庶民の大半は姓を持っていなかった。江戸時代になると裕福な商人などが「紀伊国屋」とか「越後屋」のように姓の代わりに屋号を名乗ったり、農民が他家と区別をするために呼び名として「苗字」(川上とか、森とか)を名乗っていた例はあるが、それらは姓とは別物である。
こうした夫婦別姓の伝統は明治になっても変わらなかった。政府が国民全般に苗字を持つことを許可したのは1870年のことである。当然、それは来る全国統一戸籍の編製への布石でもあった。
ただ、許可制では国民が積極的に苗字を作ろうと乗り出さなかったため、1875年には苗字の使用を義務化したわけである。それを発令する1875年の太政官指令では、夫婦は同姓にせよという規定はなかった。
それどころか、その翌年に発せられた太政官指令では、妻は夫の家に入ってからも生家の姓を維持すべきことが原則とされた。
戸主の家に嫁いできた女子に戸主と同じ姓を名乗らせなかったのは、戸主およびその家族と妻との血縁上の区別を明確にする意図があったと考えられる。
憲法をはじめとする近代日本国家の法制度を築いた最大の立役者といえるのが井上毅(いのうえ・こわし)である。井上は青年時代にフランスに法律の研究で留学したことがあり、西欧をはじめ諸外国の法制度にも精通していた。
井上は戸籍と姓の問題について、内務省への意見書案(1878年)の中で次のような意見を述べていた。
「姓氏」は必ずしも「一戸一姓」である必要はなく、複数の姓が「一家」に生活することは「世間常に有るの事なり」。むしろ一家の姓を統一するのは日本社会の慣習に適合せず、「百端の紛雑」を来たす、つまり社会の混乱につながる。立法者の側でも夫婦別姓は当然のこととみなしていたのである。
夫婦同姓を「常識」にした明治民法
こうした流れを断ち切るように、夫婦同姓の原則を打ち出したのが1898年の明治民法(前述)である。まず、同法の母胎となった旧民法人事編は、その第243条に「戸主及び家族は其家の氏を称す」と定めていた。これは起草者の説明によれば、戸主およびその親族はもちろん、他家より来た者もみなその家の氏を称すべきとすることは「古と大いに異なる所」であった。
すなわち、古来からの日本の伝統とはまったく反するというわけである。
そして明治民法でもこれを受け継ぎ、その第746条において「戸主及ビ家族ハ其家ノ氏ヲ称ス」と定めた。ここにおいて、日本国民はすべて一つの家に属し、一つの氏を持ち、一つの戸籍に入るという「一家一氏一籍」の原則が確立されたのである。
この原則によって、個人の入家(入籍)・去家(除籍)によってその氏が変更になるのが当然のこととなった。したがって甲家の女子が乙家の戸主の妻となった場合、あるいは丙家の男子が乙家の戸主の養子となった場合、いずれも入った先の乙家の氏を称すべきものとなった。
個人は一つの戸籍に入れば、その戸籍の氏すなわち家名を称することによって終生、その家を背負うものとなったのである。
かくて日本は儒教道徳を捨てた
実を言えば、日本でも古来、中国に倣って「異姓不養」が原則とされてはいた。もっとも、日本では中国や朝鮮ほど血統に厳格ではなく、同姓の中にふさわしい者がいない場合は異姓の者でも養子とすることは行なわれていた。このあたりも日本が儒教倫理を重んじる国であるかに見えて、家の存続のためには現実主義を優先してきたことがわかる。
明治期になってからも、異姓不養の原則は維持されていた。それを示すのが、1873年の太政官布告第263号である。ここでは、家督相続人は「総領ノ男子」(長男)であることを原則とし、死亡や病気などやむを得ぬ場合に限り、二男以下または女子の相続を認め、それも無理な時は同姓の者を養子として相続を願い出るべきこととされた。
だが、時代を下って明治民法になると、異姓不養の原則を完全に放棄するものとなった。家の維持のためには同姓・異姓を問わず養子を認めるものとしたのである。こうなると明瞭に儒教道徳からの逸脱である。

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