第二次世界大戦では約230万人もの日本兵が死亡した。だが、戦地では医師による死亡診断書など望めない。
遺体さえ見つからない場合、国家はどうやって兵士の「死」を確定させたのか。
本連載では日本の「戸籍」とその歴史について、政治学者の遠藤正敬氏が解説。
第4回では、遺体なしでも「戦死」と認定し戸籍から抹消する「戦死公報」の実態と、誤って"死亡"扱いされた人々について取り上げる。
1974年にフィリピン・ルバング島から帰還した小野田寛郎元陸軍少尉は、戦後29年間ジャングルに潜伏し続けた。その間、彼は二度も「戦死」として除籍され、帰国後に戸籍が回復された――。
※この記事は遠藤正敬氏の書籍『戸籍の日本史』(集英社インターナショナル)より一部抜粋・構成。

「英霊」の死亡届

第二次世界大戦では、約230万人もの日本兵が死亡したといわれる。
一般に、戦地で兵士が死亡した場合、国家の手で遺族のもとに戦死の通知が届けられた。戦死者の死亡届は平時と同じというわけにはいかない。というのも、通常の死亡届では医師による死亡診断書や死体検案書が必須とされる。
だが、戦地ではそのような書類を発行することは望めないし、そもそも遺体が発見されないまま「戦死」と告知された場合、死亡届はどうするのか。
そのような戦死者特有の事情を考慮し、1904年すなわち日露戦争において司法省は遺体が発見されなかった兵士について、軍の関係機関から死亡通報を受けた時に限り、死亡届に診断書や検案書を添付しなくてもよいと訓令を発した。
その後、戦死者の死亡届は親族を介さずに官公署の側で直接処理される形に変わる。
公式には「死亡通知」や「死亡告知書」と名付けられているが、一般には「戦死公報」として知られている。
戦死公報には、戦死者の氏名、本籍、階級、戸主の氏名とともに、「○年○月○日○時○分××において戦闘により戦死す」という具合に戦死の年月日、場所、そして原因が記載された。
この戦死公報は基本的に戦死者の所属する部隊の隊長が作成し、部隊長から戦死者の本籍地へ送付された。これを受けてまず戸籍係が戸籍から戦死者の名前を抹消し、除籍簿に転記したのちに役場から遺族のもとへ届けられた。
また、本人の遺体が発見されておらず、しかも上官などからの報告がない場合でも、死亡の可能性が極めて高いと推認される時には戦死公報が出された。
たとえば、所属する部隊が派遣地で敵軍の攻撃により全滅(当時の言い方では「玉砕」)した場合や、乗船していた船舶が敵軍の機雷に接触して爆沈したような場合、その時の状況が詳細に分からなくても死亡した可能性が高いと判断されれば、戦死公報が出される。
いわば軍人・軍属についての「戦死推定公報」であり、実際の死亡日から数年経った後に遺族のもとへ届くという場合も珍しくなかった。

小野田寛郎―「三度、戸籍上に生をうけた」男

だが、戦場という混乱した状況下でのことである以上、戦死公報が常に正確であるという保証はない。本人は生存しているにもかかわらず、誤った判断に基づいて戦死扱いされ、戸籍が抹消されるというケースは当然起こり得た。
もし死亡報告によって除籍された者が生存していることが判明した時は、本人もしくは関係人が管轄区裁判所の許可を得て戸籍訂正を申請し、「死亡」の記載を戸籍から消除すれば「生存者」として戸籍が回復される。戸籍上「死んだ」人間が、戸籍上「生き返る」というわけである。
この件で有名なのは、1974年にフィリピン・ルバング島から帰還した小野田寛郎(おのだ・ひろお)元陸軍少尉である。

いわゆるスパイ養成学校として知られる陸軍中野学校出身の小野田は、1944年にルバング島に「残置諜者(ざんちちょうしゃ)」、つまり日本軍が撤退した後も現地に残ってスパイ活動や後方かく乱を行なう任務を帯びて派遣されたが、所属部隊は45年にほぼ全滅した。
このため小野田は生死不明のまま、1947年にいったんは戦死公報が出されて除籍されたが、51年、彼の生存が確認されると戸籍が回復された。
この時に大規模な捜索が行なわれたが、小野田の身柄は確保できなかった。捜索隊が投降を呼び掛けても、小野田は「米国軍による欺瞞工作ではないか」と疑ったからである。この結果、小野田はまたしても「死亡」として除籍された。
だが、小野田は1972年に生存が確認され、74年に元上官が小野田に直接、命令解除を告げたことによって彼はようやく「投降」した。そして小野田は帰国し、再び戸籍回復となった。
いうなれば、彼は「三度、戸籍上に生をうける」という数奇な運命をたどったわけである。


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