2024年(令和6年)秋の衆議院選挙以降、少数与党になった政権与党に対し、「103万円の壁」や「年収の壁」と呼ばれる問題の是正を求める動きがあり、報道でも注目を浴びた。そして、それを受けて一定の「税制改正」も行われた。

しかし、青山学院大学法学部教授(税法)で弁護士の木山泰嗣(きやまひろつぐ)氏は、「選挙で得票を伸ばした政党の主張は通らず、そればかりか『基礎控除』を『複雑化』する改正までされてしまった」と批判する。
そして、「年収の壁」と呼ばれる問題の本質は「壁」自体ではなく、「だれにでも必ずかかる生活費」の「控除」の額を物価に合わせる「基礎控除額の適正化」にあると指摘する。
近年の急激なインフレにより国民の生活費が大幅に上昇する中、所得税制の議論は本来どうあるべきか。木山氏が憲法、および「税法理論」の観点から解説する。(連載第1回/全3回)
※この記事は木山泰嗣氏の著書『ゼロからわかる日本の所得税制 103万円の壁だけでない問題点』(光文社新書 刊)から一部抜粋・構成しています。

「税法理論」に則していた国民民主党案

2024年10月の衆議院解散による選挙で、「国民の手取りを増やす」と主張した国民民主党が掲げていたのが、「103万円の壁」問題でした。その主張は、どういうものだったのでしょうか。
その「内訳」の数字は、あまり報道されていませんでした。
実際には、「103万円を178万円に引き上げるべきだ」という主張は、「給与所得控除額の最低保障額」(55万円)は据え置き、「『基礎控除の標準額』を、48万円から123万円に引き上げるべき」という主張だったのです。
この内訳は、とても重要です。
つまり、「生活費控除の原則(※)」に関係のある「基礎控除」のみを、物価上昇にあわせて、大幅に引き上げるという、憲法で保障された「生存権」を実現するためです。「税法理論」に則した主張だったのです。
※「生存権」(憲法25条)を実現するために、「税制」で国民の「最低生活費」に「課税」することがないよう、配慮しなければならないという原則
これは、「給与所得者」に限らず、すべての所得者に大きな「減税」になります。
そして、約6000万人いる「給与所得者」でみても、「最低保障額」の引き上げだけをしても無関係だった「1年の給与収入が190万円を超える」人にも、大きな「減税」をもたらします。
平成30年(2018年)改正で導入された「基礎控除」の「所得制限」をどうするかによって、「減税」が生じない人も出てきますが、それは別の議論です。
世間で議論されているのは、以下の2点です。
①国民一人ひとりにとっていくら減税になるのか(手取りがいくら増えるのか)
②それによって国の税収がいくら減るのか

このような議論を軸にすると、「大幅減税を歓迎する国民」対「税収不足で困る国」という図式になってしまいます。
しかし、この問題の本質は、そこにはありません。
憲法が要請する「生活費控除の原則」の所得税法上のあらわれとしての「基礎控除の標準額」。これを物価上昇にあわせて引き上げなければならないなかで、具体的にどのように応えるべきなのか? これが問題の本質だったのです。端的にいえば、「基礎控除額の適正化」の問題でした。
この「基礎控除額の適正化」の問題で、税収が減り、国の財政が厳しくなるという反対論には、説得力がありません。というのも、所得税法が定める「基礎控除の標準額」は、昭和時代には、物価上昇に応じて毎年のように引き上げられていたからです。
この30年は物価上昇がなかったので、「基礎控除額の適正化」は話題になりませんでした。物価高が急速に進んだことで、令和時代に問題が顕在化しました。

ですから、憲法の要請に基づき、これを国民全員について引き上げることは必須なのです。
それによって国の税収が減るといいますが、そもそも物価上昇によって国の税収は大幅に上がっています。国が受け取るものでは「物価上昇の恩恵」を受けながら、それを払う国民が生活に払う費用(最低生活費)は「物価上昇の負担」をそのままさせる。反対論は、このロジックを「理屈」として正当化できるのか、大いに疑問です。

「健康で文化的な最低限度の生活」をするための「最低生活費」

次に、「最低生活費」の内容を考えてみたいと思います。この点は、2020年(令和2年)のコロナ禍以降、筆者が疑問を感じていたことでした。以下、その要点を述べます。
最低生活費とは、そもそも「健康で文化的な最低限度の生活を営む」ための費用でした。
そうすると、ここには「健康……的な生活を営む」ための「最低生活費」と、「文化的な……生活を営む」ための「最低生活費」の2種類があることになります。ここでは、それぞれ「健康生活費」、「文化生活費」と名づけたいと思います。
「健康生活費」については、前提として、「基礎控除」とは別の「所得控除」である「医療費控除」があります。病院での診療や医薬品の購入については、原則として年間で10万円を超えた場合について還付を受けられる制度があります。
ですが、コロナ禍で、毎日わたしたち国民がつけざるを得なくなった「マスク」の購入費用や、アルコール消毒などの感染対策のために個人が負担する費用は、医療費控除の対象ではありません。
これまで想定されていなかった費用といえますが、これはまさに「健康生活費」だったと考えられます。
それなのに、この点は無視され、2020年(令和2年)からも「課税所得」に含まれてきました。あのとき、わたしたち国民は、個人の嗜好(しこう)でマスクをしていたのではないでしょう。「課税所得」から消費するものではなく、「課税所得」から除外されるべきものだったと思います。
次に、「文化生活費」です。令和時代には、国からの情報を得たりさまざまな申請をしたり確定申告をする際にも、デジタル機器の使用が不可欠となりました。パソコン、タブレット、スマホなどですが、これらの諸費用は、まさに「文化生活費」といえるのではないでしょうか。

「消費税」も最低生活費の負担増大の要因に

このように令和時代に暮らすわたしたち国民には、30年前には負担が不要だった「最低生活費」の負担が、そもそも追加的に増えています。これに加えて、もう1つ、議論されていない支出があります。
それは、「消費税」です。消費税ができたのは、1988年(昭和63年)で、1989年(平成元年)4月1日からスタートしました。37年前のことです。
物の購入やサービスの提供を受ける対価にかかる代金に、原則として上乗せされる税金です。
当時は3%だったものが、いまでは10%です。「生活必需品」には8%の軽減税率があります。この言葉からみても、「最低生活費」は、消費税によってもこの30年の間に大幅に負担が増えたことがわかります。
ということは、「憲法」の要請である「生活費控除の原則」に応えるために、「税制改正」の議論として考えるべきことは、次の点でした。
これらを踏まえた「基礎控除の標準額」が、30年前のまま(令和7年〔2025年〕改正前は48万円)でよいのか? ということです。
それを、国民民主党は「123万円」(「給与所得控除額の最低保障額」55万円とあわせると、給与所得者の「課税最低限」は178万円)に引き上げるべきと主張したわけです。

基礎控除額は「123万円」に引き上げても足りない?

しかし、与党の税制調査会は、「48万円」を「58万円」に引き上げることしか提案しませんでした(令和7年度税制改正大綱)。国会に提出された修正案でも、所得や期間を区切った「上乗せ」があるだけで、国民全体の恒常的な「基礎控除の標準額」の引き上げは、あくまで10万円アップにとどめられました。
30年前に比べて令和時代にあらたに増えた「最低生活費」だけをみましたが、「最低生活費」には、食費、住居費、水道・光熱費、被服費、教育費などがあります。これに加えて、文化的な生活なのですから、旅行や娯楽だって本当は含まれているでしょう。
子どもを育てることになったとき、わたしたち国民はホテルにも東京ディズニーランドにも家族でレジャーに行くでしょう。「娯楽」は「消費」とされ、所得税法の世界では「課税所得」から、自分で処分するものと理解されています。

ですが、この数年だけでみても、これらの費用の価格がどれだけ上がっているのか。こう考えれば、自ずと答えは導かれるはずです。
1年で「48万円」だった「基礎控除の標準額」を、「123万円」に引き上げる。それでは大幅減税になる。国が財源不足に陥る。こうして否定されたのが、国民民主党の主張です。
といっても、「123万円」の「基礎控除」は、月に換算すれば「10万2500円」でしかありません。たとえば、東京の賃貸マンションに家族で暮らしている人は、月にいくら家賃で支払っているでしょうか。そう考えると、この国民民主党の額であっても、令和時代の「最低生活費」として十分といえるか疑問が残るでしょう。
政権与党の税制調査会が財源不足になると反対した、「基礎控除の標準額」を「123万円」(給与所得者の課税最低限を178万円)に引き上げる国民民主党の案でも、実際には、現実の「最低生活費」には、全然足りないのです。特に、人口が集中している東京都心での生活では到底足りない額といえるでしょう。
それでも、「立法府」である国会が決める「課税最低限」の額ということになります。
「まあ、このあたりでしょうか」というラインを引くしかありません。地域で分けない全国統一額で「所得税法」は「基礎控除額」を定めているからです。
そうすると、あとはそのラインである「標準額」を超えた「最低生活費」については、「生活費控除の原則」の「例外」として扱われ、「課税所得」に含まれます。そして、「消費」として課税された所得のなかから支出することになります。
計算式を挙げると、次のようになります。
理論所得-所得控除(最低生活費の控除)=課税所得=消費+貯蓄
これが、もともと「所得税法」が前提にしている考えです。
しかし、「基礎控除の標準額」は「58万円でよい」という考え方には、令和時代の生活実態をどのようにとらえているのか、大いに疑問が残るでしょう。


■木山 泰嗣(きやま ひろつぐ)
1974年、神奈川県横浜市生まれ。青山学院大学法学部教授(税法)、同大学大学院法学研究科ビジネス法務専攻主任。鳥飼総合法律事務所客員弁護士。2011年に『税務訴訟の法律実務』(弘文堂)で、第34 回日税研究賞(奨励賞)受賞。


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