2026年のNHK大河ドラマ「豊臣兄弟」で小栗旬さんが演じる織田信長(1534~1582年)は、君主として人々をどのように裁いていたのでしょうか。その一端を窺うことができる史料が『信長公記』です。

同書は信長の旧臣・太田牛一が記した信長の一代記。江戸時代初期に成立した史料であり、一次史料ということはできません。また文中には誤りも含まれています。それでも、信長を知る上で貴重なものとして歴史家からは重宝されています。
そして同書には、前述したように、戦国大名である信長がどのように人を裁いていたかを窺うことができる貴重な逸話も収録されているのです。ここではその一つを紹介しましょう。(歴史学者・濱田浩一郎)

織田家領内で強盗事件が発生

尾張国海東郡大屋(現在の愛知県稲沢市大矢町)という里に織田家の家臣・織田信房の家来で甚兵衛という「庄屋」がおりました。一方、隣の一色村には左介という者がいました。甚兵衛と左介は親しい間柄だったとのこと。
ある年の12月中旬頃、大屋にいた甚兵衛は、年貢を納めに清洲へ向かいます。甚兵衛は家を留守にしたのです。甚兵衛の留守を狙って、彼の家に「夜討ち」に入ってきたのが、何と一色村の左介でした。夜討ちというのは、夜、不意に敵を攻撃することです。
「夜討強盗」などのような表現でよく中世の史料に登場してきます。
左介は夜盗のため甚兵衛の家に侵入しますが、物音がしたからでしょう。甚兵衛の「女房」が目を覚まし、起き出します。そして左介にしがみ付き、彼の刀の鞘を取り上げるのです。
この事件は当時の尾張国の中心地であった清洲に報告され、双方(つまり甚兵衛方と左介方)が守護の斯波(しば)氏に言い分を申し立てることになります。
ちなみに一色村の左介は信長の乳兄弟(血縁の兄弟ではないが、同じ人の乳で育てられた者同士の関係)である池田恒興の被官でした。恒興は天文五年(1536年)、恒利と養徳院の子として生まれます。恒利の妻である養徳院は、幼い信長の乳母を務めていたのでした。
双方とも自らの言い分を申し立てていたこともあり、どのようにこの事件の決着を付けるかが注目されました。

恐怖の裁判方法“火起請”とは

現代では物的証拠を集めたり、他者の証言を集めたりして「犯人」に迫っていきますが、この時とられたのは「火起請(ひきしょう)」という手段です。火起請とは真っ赤に焼いた鉄を握らせて、しっかり握れるか、手がただれるか等によって正邪を定めるものを言います。
火起請は室町時代から江戸初期にかけて行われていました。湯起請(煮えたぎった熱湯の中から石を拾い出し、その後、手の火傷の状態などで主張の真偽を判定する裁判方法。
古代においては盟神探湯(くかたち)と呼ばれた)と同じく、その中身は古代からの迷信や呪術的なものの影響を色濃く残していました。非合理的・非科学的な裁判手続きです。
熱い鉄を触るということは勇気が必要でしたし、何より火傷で後遺症が残ることもあったでしょう。無罪の者でも鉄を取り落としてしまえば罰せられる可能性もありました。冤罪が多発したと考えられます。
他方で、鉄火を取ることは「英雄的行為」であり、鉄火を取ることに決まった者に村から米が与えられる事例もあったのです。
ちなみに自分の取る鉄に火傷をしない細工をする不正もありました。例えば手のひらに塩を多くまぶし鉄火を握ったことにより火傷しなかったとの逸話もあります。

火起請で決着はついたはずだったが…

火起請は、決着がつけ難い境相論(所領の境界を巡る争いや、村同士の山野の用益権を巡る争い)の際に行われることが多かったのですが、今回のような強盗事件や殺人事件の際にも行われることがありました。
左介の場合、なぜ火起請を行うことになったのか分かりませんが、左介が「自分は強盗をしていない」とでも言い張ったため、それが本当か否か、火起請で決着を付けることになった可能性が考えられます。
左介の火起請は、三王社という神社(現在の清州山王宮 日吉神社)で行われることになり、鉄の手斧を焼いて、それを持たせる方式がとられました。奉行衆や裁判の原告・被告双方からの検使が出席しました。神前で行われていることから分かるように、火起請の結果は「神慮」とされました。

その火起請で、左介は焼けた手斧を取り落としてしまいます。普通ならばこれで左介が犯人だということになり、裁かれることになるのですが、前述した如く、左介は信長の乳兄弟・池田恒興の被官。池田の家来衆はその「権威」に驕り、左介を庇って「成敗」させまいとしたのでした。

信長登場

そうしたところに現れたのが、まだ尾張の一領主に過ぎなかった信長です。信長は鷹狩りの帰りにその現場に立ち寄ったのでした。信長は「弓・槍・道具を持って大勢の人間が集まっている。これは何事であるか」と人々に問います。そしてその直後に甚兵衛方と左介方の言い分を聞くことになるのです。
火起請の件を聞いた時、信長は「どれくらい鉄を焼いて(左介に)取らせたのか。元のように鉄を焼くように。その様を見ようではないか」と発言したと言います。双方の言い分を聞いた際に信長の顔色が変わったと『信長公記』にありますので、信長は不審を感じたのでしょう。
「どれくらい鉄を焼いて(左介に)取らせたのか」との信長の問いには「鉄をよく焼いて赤くし、このようにして取らせたのです」との言上がありました。
その時、信長は「私が火起請(手斧)を上手く取ることができたら左介を成敗する。そのように心得よ」と発言します。
信長は左介に火起請のやり直しを命じるのではなく、自分が熱い手斧を持とうと言ったのです。そして自分(信長)が手斧を上手く持てたならば、左介を殺すというのでした。

信長は火起請をどうとらえていたのか

それにしても信長はなぜ自ら熱い手斧を持つと言い出したのでしょう。左介が手斧を取り落としたことを聞いたならば、それでもって左介を成敗しても良かったはずです。おそらく現場では双方(甚兵衛方と左介方)が言い争っているような状態であって、収拾がつかなくなっていたのではないでしょうか。
そうした場においては断固とした処分を下す裁断者が必要であって、信長がその役割を買って出たと言えるのかもしれません。
信長が火起請についてどのように考えていたかは分かりません。宣教師ルイス・フロイスが記した『日本史』では信長のことを「迷信的慣習の軽蔑者であった」と評しているので、火起請など馬鹿らしいと考えていた可能性もありますが、定かではありません。
しかし、フロイス『日本史』の記述を考慮するならば、信長は火起請の非合理性を理解した上で、左介を罰するための方便として活用したとも考えられます。

信長は“焼けた手斧”を落とさなかった

さて、信長は焼かれた手斧を手の上に受け取ると、三歩歩いて柵におきます。その後、信長は「これを見たか」と言うと、左介を「誅戮」(罪のある者を殺すこと)したのです。
『信長公記』はこの事を「すさまじき様体」(凄まじい有様)と評しています。
信長は自ら熱い手斧を持つことによって、不正をした池田方に文句を言う隙を与えず、犯人の左介を成敗したのでした。
この場合の池田方の不正とは、左介が手斧を取り落としたにもかかわらず、それを庇おうとしたことを指します。
この逸話は神前で行われた火起請の現場でも不正があったことを示すものです。信長はフロイス『日本史』にて「正義において厳格であった」と記されていますが、本逸話はその事もよく証かすものであります。池田恒興は信長の乳兄弟。本来ならば信長も池田方の味方をしても良かったはずですが、信長はそうしませんでした。
自分に縁ある者を贔屓することは信長の嫌うことであったはずです。それは「正義」に背くことになるからです。
それにしても信長は、熱い手斧を持つことにより、火傷しなかったのでしょうか。『信長公記』には信長は火傷したとは書かれていません。信長の身体が人並外れて強靭で火傷しなかったのでしょうか。

実は、この点については、様々な見解(想像)があります。
  • 信長は実際には手斧を持っていなかったのではないか
  • 信長の手には火傷しないように何か(前述の塩か?)が塗られていたのではないか
  • 手斧が焼かれていない物にすり替えられたのではないか
信長の状態についての確実な史料が残っていないので、筆者としてはどれが正しいと断言することはできません。想像を逞しくすると、三王社の神官が気を利かせて、焼いていない手斧を信長に渡した可能性も考えられます。
いずれにせよ、『信長公記』は火起請のエピソードを通じ、信長のカリスマ性・超人性を強調していることは確かでしょう。


(主要参考文献一覧)
  • 下村效『「刑政総類」所収の一分国法について』(『栃木史学』1、1987年)
  • 加来耕三『戦国おもしろ意外史 : 織田信長99の謎』(二見書房、1991年)
  • 清水克行『日本神判史』(中央公論新社、2010年)


■濱田浩一郎
歴史家・著作家/株式会社歴史研究機構代表取締役、武蔵野学院大学日本総合研究所スペシャルアカデミックフェロー、日本文藝家協会会員。姫路日ノ本短期大学・姫路獨協大学講師を歴任。

著書『播磨赤松一族』(KADOKAWA)、『龍馬を斬った男 今井信郎伝』(アルファベータブックス)、『北条義時』(星海社)、『家康クライシスー天下人の危機回避術ー』(ワニブックス)ほか多数。


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