今年の大河ドラマ「豊臣兄弟!」で、主人公・羽柴秀長の兄である豊臣秀吉は、池松壮亮さんが演じています。
秀吉といえば、昔の大河ドラマや歴史小説ではどちらかといえば剽軽(ひょうきん)・ユーモラスで穏和な性格に描かれていました。

もちろん、晩年には関白の地位を譲った甥の秀次とその妻子らの粛清、朝鮮出兵で「耳鼻削ぎ」を命じたことなど、残虐さや冷酷さを示す逸話がしばしば見られます。ただし、それらは強調されないか、あるいは省略されることさえありました。
しかし、近年では、秀吉の暗黒面ともいうべきところをはっきり描く作品が増えてきています。
そこで今回は、秀吉の残酷さ・苛烈さをうかがわせる「刑罰」等のエピソードを紹介し、その背景にどのような事情があったのか考えます。(歴史学者・濱田浩一郎)

側室・淀殿の女房衆ら30人以上を処刑

最初にお伝えするのは、戦国時代末期から江戸時代初期を生きた公家・西洞院時慶(1552~1640年)の日記「時慶記」に記載されているエピソードです。
時は文禄2年(1593年)10月と言いますから、秀吉が関白に任じられた天正13年(1585年)から約8年後、また朝鮮出兵(文禄の役)開始(1592年)の翌年のことです。
大坂城において淀殿(秀吉の側室。母は織田信長の妹のお市。父は北近江の大名・浅井長政。後に秀吉の後継者となる秀頼(拾)を生む)に仕える女房衆がとんでもないことをしたとの情報が秀吉の耳に入り、それによって秀吉は多数の男女や僧侶を処刑しました。
多くの男女が火あぶりや斬刑に処されたというのです。しかもその数は30人以上というから驚きです。
「時慶記」には女房衆が一体どんな事をしでかしたかまでは書かれていません。

しかし、戦国時代の日本にやって来て、信長や秀吉とも対面した宣教師ルイス・フロイスの著作「日本史」には、大坂城における女房衆の不行跡に関する記述があります。この場合の不行跡とは、男女の間の乱れた性的関係をさします。これが「時慶記」に書かれていることと同じである可能性が考えられます。そうだとすれば、苛烈な処罰は、乱れた風紀を糺すために行われたものでしょう。

女性使用人と夫と赤ん坊を虐殺

「時慶記」には、上記事件の翌月・文禄2年(1593年)11月4日条にも、秀吉による残酷な刑罰のことが記されています。
事の起こりは、秀吉に仕えていた女房(女性使用人)が暇乞いしないまま、男性と結婚したことにありました。
無断で男性と結婚したことに秀吉は立腹したのでしょうか。まず、秀吉はその女性(女房)と夫との間に生まれた子を煮殺します。そして女性と夫を首だけ出した状態で土中に埋め、鋸引きの刑に処したのでした。
この処刑は、自分勝手な行動を断じて許さないという秀吉の意思の表れであり、これまた見せしめの意味があるのでしょう。
なお、これらの刑罰を科す基準や手続きは不明でありますが、恣意的なものだったと思われます。

石川五右衛門らに対する「釜煎り」

秀吉は、犯罪者に対する処罰も厳格に行いました。
京都相国寺鹿苑院の歴代の僧録(※)が記した日記である「鹿苑日録」の文禄3年(1594年)8月23日条には京都の三条河原にて罪人10人が釜茹でにされたとあります。
※僧侶の登録・任免などの人事を統括した役職
また、公家・山科言経(ときつね、1543~1611年)の日記「言経卿記」の文禄3年(1594年)8月24日条にも、京都・三条河原において盗人10人と子ども1人が釜煎りの刑に処されたと記されており、「鹿苑日録」の記載と整合します。

なお、「盗人」は芝居や講談にしばしば登場し、「ルパン三世」の人気キャラ「石川五ェ門」の先祖という設定でも知られる大盗賊・石川五右衛門(ごえもん)をさすといわれています。
盗人の仲間19人は磔(はりつけ)となりました。処刑を見るため多くの見物人が集まったとされますが、これまた盗みをすると「こうなるのだぞ」という見せしめの意味があったと考えられます。
まさに厳罰主義の極致と言えます。

信長の家臣のときからすでに残酷だった?

秀吉は天下人になってからこのような残酷な刑を人々に科したわけではなく、織田信長の家臣だった時から似たようなことをしていました。
今から挙げる事例は犯罪者の処罰とは異なるのですが、時は天正5年(1577年)、秀吉は信長の命により中国地方の攻略を担っていました。いわゆる「中国征伐」ですが、この時、秀吉は毛利方に与した上月(こうづき)城(兵庫県佐用町)を攻めることになります。
秀吉軍は城を攻囲し、ついに城を落城に追い込むのですが、惨劇はそれから始まります。
秀吉は敵兵の首をことごとく刎(は)ねるように指示。そればかりか城内にいたと思われる女性や子ども200人余りを播磨・備前・美作の国境まで連行。子どもは串刺しに、女性は磔にして処刑したのです(「下村文書」より)。
残忍な方法で殺された女性・子どもの多くは戦火を避けるため城内に逃げ込んでいた非戦闘員だったと思われます。秀吉はそうした人々も容赦なく処刑したのです。

その目的は、毛利方に与している武将に恐怖を与え、戦意を喪失させることにあったと考えられます。「自分たちに与しないと、このような目に遭うのだ。そうなりたくなければ、早く降伏せよ」との強烈なメッセージだったと思われるのです。
秀吉の主君である織田信長も、比叡山延暦寺の焼き討ち(1571年)の際には、非戦闘員である女性や子供らの「お許しください」との命乞いを聞かず、首を刎ねています(「信長公記」)。よって辺りには数千の死体が散乱するという目も当てられない光景が展開されました。
この場合は、敵対する浅井・朝倉に味方した比叡山延暦寺への恨みを晴らすとの意味合いがあったようですが、それにしても信長と秀吉の主従は似たような行動をとっています。

権威を高めるため…だが滅亡の遠因に

秀吉がこれまで見てきたような残酷な刑罰を科したのは彼の「人格」も関係していると思われますが、それだけではなく、自身の権威を絶対的なものにするための統制の意味合いもあったと想像されます。
秀吉による残酷な刑罰を象徴するものとしては、謀反の罪ありとして切腹した甥の豊臣秀次の正室や側室、その幼い子女ら39人(数は諸説あり)を三条河原で処刑(斬首)したことでしょう(1595年)。余りの凄惨さに見物人も見物に来たことを後悔するほどの残酷な処刑でした。
秀吉は秀次の子らまで殺したわけですが、それは我が子・秀頼を将来支える親族を抹殺したことを意味します。年少の秀頼を支える親族を減少させたことは、豊臣家の落日に繋がったと思われます。


(主要参考文献一覧)
  • 渡邊大門『秀吉の出自と出世伝説』(洋泉社、2013年)
  • 渡邉大門「あまりに冷酷非情だった。
    激昂した豊臣秀吉が科した残酷な刑罰3選」(『ヤフーニュースエキスパート』2025年9月24日)
  • 濱田浩一郎『秀吉と秀長 天下統一の軌跡』(内外出版社、2025年)


■濱田浩一郎
歴史家・著作家/株式会社歴史研究機構代表取締役、武蔵野学院大学日本総合研究所スペシャルアカデミックフェロー、日本文藝家協会会員。姫路日ノ本短期大学・姫路獨協大学講師を歴任。
著書『播磨赤松一族』(KADOKAWA)、『龍馬を斬った男 今井信郎伝』(アルファベータブックス)、『北条義時』(星海社)、『家康クライシスー天下人の危機回避術ー』(ワニブックス)ほか多数。


編集部おすすめ