2026年の大河ドラマ「豊臣兄弟!」において甲斐国の戦国大名・武田信玄(1521年~1573年)を演じるのは髙嶋政伸さんです。高嶋さんがどのように信玄を演じるのか楽しみですが、その信玄が1547年(天文16年)に制定したのが、「甲州法度之次第」(甲州法度・信玄家法とも称す)です。

甲州法度之次第は、戦国大名が家臣・領民を統制するための「分国法」の代表例の一つとして挙げられます。
戦国大名の家臣団は、それぞれ独自の利害と思惑をもつ領主たちの集合体であり、大名は彼らのまとめ役・調整役でもありました。家臣が大名に背く「下剋上」や農民らによる一揆もしばしば行われ、大名は家臣団・領民の統制に苦慮しました。
戦国最強といわれた武田信玄も例外ではありません。甲州法度之次第の末尾では信玄自身も法度を守ることを誓っており、そこに、信玄の悩みの跡が見てとれます。
その制定のきっかけの一つとなったとされる騒動の顛末が、『甲陽軍鑑』(戦国大名・武田氏について記した軍書)に掲載されていますが、意外なことに、現代人からみればまことにくだらない「ガキの喧嘩」としか言いようのないものでした。(歴史家・濱田浩一郎)

50代と40代のオッサン武士が些細なきっかけで喧嘩

ある時、武田の家臣で関東牢人の赤口関左衛門(あこうぜき さえもん)と上方(かみがた)牢人の寺川四郎右衛門(しろうえもん)が口論となりました。
同書によると、どうやら口論の契機は、赤口関による「雑言」(悪口)だったようです。赤口関の悪口に怒った寺川は席を立って、赤口関の胸ぐらを掴んで後ろの壁に押し付けます。
赤口関は押し倒されて何とか起きあがろうとしますが、赤口関は56、7歳と高齢なのに対し、寺川は40歳余の働き盛り。赤口関は寺川に押しつけられて、なかなか立ち上がることができません。
そこで赤口関は両足で寺川の脇腹を激しく蹴りました。突然のことに驚いたのか、油断していたのか、寺川はうっかり手を離して、後ろに倒れ込んでしまいました。
倒れ込んだばかりか、寺川はなんと気を失ってしまいます。原因は、赤口関が蹴りを入れた後に寺川の陰嚢を踏んだことにあるようです。
寺川四郎右衛門と赤口関左衛門には、それぞれを贔屓(ひいき)する仲間がいました。
寺川の仲間は「寺川は赤口関の胸ぐらを掴んで後ろの壁に押し付けた。よってそれは寺川の手柄だ」と言い、赤口関に味方する者は「赤口関は寺川が気を失うほど、寺川を踏み付けた。これは赤口関が利口だからだ」と持ち上げます。

目撃者は二人の喧嘩を「子どものよう」と表現

赤口関と寺川の喧嘩のことは広まり、目付衆の耳にも入ります。そして目付衆を通して武田信玄もこの騒動を知ることになります。
信玄は騒動の現場にいた侍衆を召し寄せ、赤口関と寺川の騒動が起こった時の態度を聴取し、重臣で「鬼美濃」と呼ばれた原虎胤(とらたね)と、天才軍師として名高い山本勘助に命じ、赤口関と寺川を尋問させます。
原と山本は「侍であるのに、双方ともに脇差(わきざし)での勝負がなかったのはなぜじゃ」と赤口関・寺川に質問しました。侍どうしが喧嘩に至ったならば、脇差を抜いて命のやりとりをしなければならないとの価値観が垣間見えます。まるでヤクザですが、それが武士の世界なので仕方ありません。
検使が重臣中の重臣である原と山本とあっては、赤口関と寺川は「本当は刀を抜くつもりでした」と作り話をするわけにもいきません。

また、武田信玄の弟の信繁からは、事件現場に居合わせた者に対し「なぜ両人をすぐに仲裁しなかったのか」と下問がありました。それに対し、現場にいた人々は「赤口関と寺川の態度は、町人か、あるいは7、8歳の子どものような態度だったので、大したことはないと思った」と返答したとのこと。

信玄は両者を処罰

原と山本の尋問の結果は信玄に報告されました。報告を聞いた信玄は次のように語ります。
「寺川と赤口関はいずれも年配の者であるのに、男道に関しては未だ若輩と見える。侍と侍が出会い、胸ぐらを掴むほどのことになったのならば、脇差を抜いて斬り合うべきであるのに、そのようなことはなく、取っ組み合いをしていただけ。それは他人に仲裁して欲しいとの思いがあったからだろう。
また、押し付けられていた赤口関も、武士が胸に手をかけられたからには、その時すぐに脇差を抜くべきであろう。これは口論ではない。取っ組み合いなどは喧嘩とも言えない。脇差を抜かなかったということは、それは子どもや町人の諍(いさか)いと同じ。
何より、40や50歳になって、『赤口関左衛門』『寺川四郎右衛門』という立派な名を名乗る侍が、このような諍いを起こすようでは、他国への評判も良くない。
武田家の瑕(きず)となる」
寺川と赤口関は捕縛され、耳と鼻を削ぎ取られるという残忍な処罰をまず受けます。削ぎ取られた耳・鼻は諸侍にも見せられたようです。
その後、赤口関左衛門と寺川四郎右衛門は追放刑となりますが、甲斐国・武蔵国境の峠にて何者かによって首を切られてしまいます。信玄の意を受けた者が2人を殺した可能性が高いと考えられます。追放刑と言いつつも、実際は死刑だったのです。
『甲陽軍鑑』によると、この騒動がきっかけとなって、信玄は「甲州法度之次第」を制定したということです。寺川と赤口関の削ぎ取られた耳・鼻が武田家臣にも見せられたということは、見せしめの意味もあったのでしょう。
「侍たるもの、喧嘩などしてはならない。侍が胸ぐらを摑まれるような事態になったら、それはもう喧嘩ではなく、戦である」との認識が信玄にあることが分かります。同時に、喧嘩を厳しく禁じることには、内紛を未然に防ぎ、統制と結束を強化する意味合いがあったと考えられます。
非常に激しい精神ですが、そこまでしなければ、群雄が割拠し下剋上が横行する戦国乱世の荒々しい世の中で勝ち残っていくのが困難だったことを、端的に示す逸話と言えるでしょう。


■濱田浩一郎
歴史家・著作家/株式会社歴史研究機構代表取締役、武蔵野学院大学日本総合研究所スペシャルアカデミックフェロー、日本文藝家協会会員。
姫路日ノ本短期大学・姫路獨協大学講師を歴任。
著書『播磨赤松一族』(KADOKAWA)、『龍馬を斬った男 今井信郎伝』(アルファベータブックス)、『北条義時』(星海社)、『家康クライシスー天下人の危機回避術ー』(ワニブックス)ほか多数。


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