日本では、男性は比較的自由にパイプカットを受けられる一方で、女性が自らの意思のみで不妊手術を選択することは原則認められていない。
本来、進学や結婚など人生の多くの選択は、本人の意思に委ねられるはずだ。
だが「子どもを持たない」選択は、いまも「母体保護法」という法律によって制限されている。
こうした法制度の是非を問い、20~30代の女性5人が、2024年に国を相手取った訴訟に踏み切った。自らの意思で不妊手術を受けられないのは、個人の尊重を定めた憲法13条および24条2項(※)に反するとして、生殖に関する自己決定権を主張した。
※配偶者の選択、財産権、相続、住居の選定、離婚並びに婚姻及び家族に関するその他の事項に関しては、法律は、個人の尊厳と両性の本質的平等に立脚して、制定されなければならない。
そして3月17日、東京地裁で判決が言い渡された。
本判決は、原告の請求を棄却した一方で、現行の母体保護法の規定について「合理性に乏しい」と付言。さらに避妊の自由は、本人の意思で憲法上保障されるとした。弁護団によれば、憲法上の権利として避妊の自由を明確に認めた裁判例は国内初だという。
とはいえ、“国内では類を見ない司法判断”ということもあり、その内容もいまひとつピンとこない人も多いだろう。この判決は何を意味して、どこが画期的なのか。そもそもなぜ原告らは不妊手術の解禁を訴えているのか――。
女性の不妊手術が制限されている背景から解き起こす。
(ライター・佐藤隼秀)

なぜ不妊手術は原則、禁止されているのか?

そもそもなぜ女性は、自らの意思による不妊手術の実施を制限されているのか。
その起源は、1940年に制定された「国民優生法」に由来する。当時は戦時下で、「産めよ殖やせよ」が国策とされる中、人口増加を支える目的で制定され、悪性の遺伝子増加を防止しようとする優生思想が色濃く反映された制度だった。これにより、遺伝的精神病が疑われる場合など優生的理由以外の優生手術(現在の不妊手術)は原則禁止とされ、女性の意思よりも配偶者などの同意が優先されると定められた。
その後1948年に、国民優生法は優生保護法として改称され、1996年には母体保護法へと再び名を変えた。女性の人権を顧みなかったことへの反発や、国際社会からも非難を浴びたことで、法改正が行われていったものの、女性の不妊手術に関する大枠は据え置かれることとなった。
その結果、現行の母体保護法でも、女性が不妊手術を受けるのは原則禁じられている。例外的に許可されているのは、「妊娠や出産が生命に危険を及ぼすおそれがある場合」か、「すでに複数の子がいて分娩のたびに母体の健康が著しく低下するおそれがある場合」のいずれかの要件を満たす場合であり、加えてどちらの場合も配偶者の同意が必要とされている。
「国民優生法と母体保護法の目的を比べると、もはや共通するところはありません。(中略)この法廷で、歴史を前に進めていただきたいと思っています」
上記は、原告代理人弁護士の亀石倫子氏による、裁判の意見陳述書から一部抜粋したものだ。いわば戦時下の制度が、現在も地続きで機能しているのはナンセンスであり、女性の「産むか産まないかの自己決定を奪っている」と訴えているわけだ。
また母体保護法は、個人の尊重を保障する「憲法13条」や、婚姻は個人の尊厳と両性の平等を基礎とするとした「憲法24条2項」にも違反していると主張し、提訴にいたった。

原告たちの「産まない」理由

原告として法廷に立ったのは、20~30代の女性5人だ。
アロマンティック(他者に恋愛感情を抱かない性的指向)であり、自分の体に生殖能力があることへの違和感を抱えている人。
「キャリアよりも子供を産む選択を強いられた」母を見て、幼少期から子供を持つことへの嫌悪感があった人。持病を抱えながらも海外で不妊手術を受けた人――。それぞれ異なる背景を抱える5人が共同して、2024年に国を相手取り訴訟を提起した。
「生まない選択をした私のような女性は、常に本来あるべき姿から外れた存在として扱われてしまうのです。母体保護法によって、私の尊厳は傷つけられ、身体の自己決定という最も基本的な権利すらも奪われています」(原告による意見陳述より一部抜粋)
一般には、主体的に出産を選択しない女性は少数派として見られ、「妊孕性(にんようせい)に拒絶感を抱く感覚」は理解されづらい。男性であれば尚更だろう。
ただ、こうした「身体への違和感や生殖に対する感覚」は、世間的には理解されづらいがゆえに、当事者らが声を上げる意義は大きい。
過去を振り返れば、LGBTQや同性婚を求める当事者なども、いまより社会で受け入れられづらい存在として括られてきたはずだ。それが徐々に認知が浸透することで、当事者らも可視化されやすくなっていった。
今回の原告らも同様に、法廷を通して発信を重ねることで、自らのアイデンティティや主体性を獲得する。そうした社会的な意味合いも帯びる訴訟だ。
対して、被告である国側は、裁判を通じて「卵管結紮(けっさつ)術を受けた女性の7%が5年以内に後悔した」という調査結果を引き合いに、母体保護法は自己決定権の保障に寄与すると主張した。

こうした主張に関しても、原告や亀石氏は「過剰なパターナリズムだ」として疑問を呈した。
パターナリズムとは父権主義とも呼ばれ、強い立場にある者が、弱い立場にある人に対して、「本人のため」だという大義で、本人の意志を問わずに介入・干渉・支援することを指す。例えば、過保護な親による習い事の強制や、医師が患者に告知せず治療方針を決定する行為もその一つだ。
対象者の判断能力が不十分な場合などは効果的な一方で、本人の主体性や自己決定権を阻害する弊害も指摘されている。
「人生は常に二者択一の連続です。 進学や就職、結婚などあらゆる人生の領域で、人は自分の意思で選択をします。なぜ子供を持たないという選択だけ、いずれ後悔すると決めつけられるのでしょうか? 私は憤りが収まりません」(原告の意見陳述より一部抜粋)

原告側は即日控訴、第二審の争点は?

冒頭にも記した通り、本判決では原告らの主張は棄却され、母体保護法は違憲ではないとされた。ピルやミレーナ(子宮内に装着する避妊具)など他にも避妊手段がある以上、不妊手術の実施を制限しても「人格的生存に関わるとまでは言えない」と判断したわけだ。
もう一つの争点である憲法24条2項に関しても、母体保護法の規定は「家族に関する法制度とは言い難い」として、そもそも判断の対象とならなかった。
その一方で、避妊の自由に関しては、「国家の介入なしに憲法13条で保障される」とする解釈を示した。
判決文の末尾には、「配偶者同意要件(配偶者の同意なしに手術が受けられないこと)」や、「多産要件(すでに子を産んでいる人にだけ要件が緩和されること)」については、「同法の目的に照らして合理性に乏しい」と明言。「制度の在り方について適切な検討が行われることが望まれる」と見直しを求める姿勢が見られた。

つまり、避妊の自由は認めるものの、不妊手術の解禁までは保障できない。ただ、現行の母体保護法には改善の余地があると判断したわけだ。
本判決を受け、原告側は即日控訴に踏み切った。期日後に開かれた会見で、原告の1人はこう語る。
「女性が子供を産まない自由や、女性が不妊する権利を国が認めたという点では、この判決は画期的だと言えると思います。
ただ現状では、避妊の自由は認められたと言われても、情報と手段がなければ実現はできません。 正しい情報へのアクセスや、自分に合った避妊を選ぶこと、ひいては自分らしいと思える体で生きていくことは、現在この国では事実上、奪われた権利だと思っています。
それを私たちの手に取り戻すことが、これから私たちにできることなのではないかと思っております」(判決後の会見で原告のコメントより)
一審後の報告会見で、原告らが抱えた横断幕には「一歩前進」とプリントされていた。避妊の自由を憲法上の権利と認めながら、判決では不妊手術の自由までは認められなかった。その線引きがどこにあるのかは、今後、控訴審に持ち越される。
■佐藤隼秀
1995年生まれ。大学卒業後、競馬関係の編集部に勤め、その後フリーランスに。
ウェブメディアを中心に、人物ルポや経済系の記事を多く執筆。趣味は競馬、飲み歩き、読書。


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