「出産費用ゼロ」で妊婦の負担軽減のはずが…“産める場所”がなくなる? 産婦人科医会は「周産期医療体制崩壊の危機」と警鐘
政府は3月13日、出産費用の無償化の実現へ、関連法の改正案を閣議決定した。
妊産婦への負担軽減で少子化対策としても一定の効果が期待できるため、高い支持率を誇る高市政権にとってはさらなる浮揚も見込める法案であるが、日本産婦人科医会(石渡勇会長)は地域の医療体制が崩壊の危機にあると警鐘を鳴らす。

法案の内容次第では日本のお産を支える一次施設が新制度で激減することも予想され、医療提供体制の持続可能性がどこまで担保されるのかが問われる。(ライター・松田隆)

予想される「お産難民」の増加

閣議決定の2日前の3月11日、東京都千代田区の日本プレスセンタービルで開催された日本産婦人科医会の定例の記者懇談会の席で石渡会長は次のように述べた。
「分娩(ぶんべん)費用等の無償化、保険化が議論されておりますけども、お産難民がこれから続出してくることは目に見えているわけですね。…私たちは妊産婦の負担軽減については賛成しておりますが、分娩費用等の無償化については一次施設がそれによって閉院していくことがあってはならないのであって、その点を今後、検討会の中で議論をしていきたいと思っております」
一次施設とは、検診や通常の分娩を行う病院・診療所で小規模な「かかりつけ医療機関」をイメージすればよい。また、会長の言う「検討会」は厚生労働省の「小児医療及び周産期医療の提供体制等に関するワーキンググループ」を指している。
多くの国民は「分娩費用がタダになる」と聞けば、損をする者がいない、社会的格差を埋める政策と考えるであろう。事実、無償化を進めるとしていたのは自民党・日本維新の会の与党だけでなく、中道改革連合・国民民主党・社民党・共産党などの野党も同様の主張が確認できる。
しかし、問題はそれほど単純ではない。
日本産婦人科医会は2028年度までに施行される新制度の内容によっては、地域の一次施設が激減。その結果、自宅から50km以内に分娩のための施設がない、いわゆる「お産難民」の激増が予想され、世界一安全とされる日本の周産期医療体制が崩壊しかねないと警鐘を鳴らしている。
出産に関する安全性が低下すれば、胎児・新生児はもちろん、母体も危機にさらされる可能性が高まる。医療機関にとって何より大事なのは患者(妊産婦)の生命と安全である。それが損なわれる危険性があるシステムの実施にあたっては、十分なリスク排除が求められるのは、産婦人科に限らずすべての医療従事者にとって共通の考えである。

小さくない厚労省との隔たり

閣議決定は、現行の出産育児一時金(50万円)に代えて、全国一律の水準で保険適用するもので、分娩1件あたりの基本単価とは別に、すべての妊婦を対象とした現金給付を設けるという、保険適用+現金給付のセットとなる。分娩費用の単価と給付される現金、その具体的な金額については今後検討される。
この点は厚生労働大臣の諮問機関である社会保障審議会の医療保険部会が2025年末に公表した「議論の整理」に明記され、閣議決定はそれに沿った内容となっている。
※関連記事:出産費用「原則ゼロ」現金給付とセットで“決着”も…「経営限界」産婦人科が恐れる“お産難民”の危機
問題は今後検討される金額である。ある産婦人科医関連団体の幹部A氏は、医会側と厚労省の思惑の違いを以下のように説明する。
「厚労省サイドは、現物給付(保険分)の水準を現行の出産育児一時金(50万円)に多少の上積みをした程度とし、加えて現金給付を5~10万円程度、合計55~65万円のレンジで制度設計しているとみられます。
閣議決定では『50万円より一定以上高い水準に設定する』との方向性は示されましたが、具体的な数字は法案成立後の政令・省令に委ねられ、現段階では確定していません。現在の情報では分娩数70万人、(予算は)総額3500億円、上限でも4000億円の準備しかないと言われています」(A氏)
それが事実であれば、分娩費用1件あたり50万円から57万円。これに対して、医会サイドは現物給付(保険分)と現金給付の合算で少なくとも75万円、可能であれば80~100万円近い水準を求めているとされる。「両者の隔たりは相当に大きいと認識しています」とA氏は口にする。
保険適用の結果、出産育児一時金の50万円を少しばかり上回る程度にとどまれば、一次施設は軒並み赤字となり経営が成り立たず閉院が相次ぐことも予想される。
「55~65万円水準では、現在42.4%に達している赤字施設率がさらに60%超に拡大するとシミュレーションされています(日医総研特別調査ワーキングペーパー、487号(2024年11月))。制度施行が産科体制崩壊の引き金となりかねません」と、「出し渋り」が決定的な事態を招きかねないとA氏は指摘する。

20年でほぼ半減の一次施設

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石渡会長(撮影・松田隆)

記者懇談会の席で石渡会長は以下のように厳しい状況を説明し、一次施設への補助制度の創設の必要性をにおわせる。
「全国の71%の分娩が一次施設で行われています。特にこの傾向が地方では顕著でして、施設には公的な助成が全くありません。二次や三次の施設には助成がありますけども、一次施設に関しては企業努力だけでやっておりまして、非常に経営的に難しい状況になってきております。
出生数の減少でありますとか、物価の高騰、人件費の高騰を合わせますと、ますます経営が困難になっております。60%ぐらいの施設が撤退しようというふうになってきております」
石渡会長が言うように、少子化の進行は一次施設を直撃しており、2006年から2025年までの20年で、診療所が48%、一般病院が50%減少している。数で言えば、診療所は1818施設から951施設へ、一般病院は1003施設から499施設となった。この結果、全国約1700の市町村のうち、1041市町村には産科施設がない状態である。(データは「日本産婦人科医会施設情報調査2025」による)
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分娩施設数の推移(作成・日本産婦人科医会)

仮に、東京駅周辺に住む妊婦が50km先の医療機関に通うとすれば、JR中央線なら八王子を越えて高尾まで、東海道線なら大船を越えて藤沢まで行かなければならないことになる。
また車で通院するにしても、道路状況にもよるが、片道で1時間以上かけて移動しなければならない距離にあたる。

早期新生児死亡率との関係

出生数減少に加え、保険適用によるお産の単価の低下があれば、20年でほぼ半減した一次施設が雪崩を打って閉院に追い込まれるのは目に見えている。
日本産婦人科医会の中井章人副会長は記者懇談会で、前述の「施設情報調査2025」における施設の減少率と早期新生児死亡率の関係について「有意差はないものの、施設の減少率が高いほど早期新生児死亡率が高い傾向にあり、今後さらに施設の減少が進めば、各自治体の周産期指標に負の影響を及ぼす可能性がある」と報告した。
その理由として「アクセスのための距離が延びていることと、新生児死亡なので施設間搬送をしている可能性もあります」と同副会長は指摘する。
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施設の減少率と早期新生児死亡率(作成・日本産婦人科医会)

このような一次施設の減少と新生児死亡率の間の相関関係に関するデータは海外では集まってきているそうで、石渡会長は「このまま一次施設から分娩施設の撤退が進み、地域に分娩施設がなくなった場合、そこから国が対策をとっても遅いという状況です。
そのような社会実験は許されないと思っております」と話した。
命に関わることであるため、リスクと損害の正確な相関関係を証明するまで手を打たないことは、損害の発生を前にして対症療法に徹するに等しい。蓋然性の高いリスクが存在すれば、それを防ぐための政策を実施するのは当然という主張である。
この点についてA氏は以下のように語り、厚労省への不信感をにじませた。
「これは『施設が減れば赤ちゃんが死にやすくなる』という、政策判断に直結する非常に重大なエビデンスです。2、3年後には早期新生児死亡率が悪化すると想定されます。厚労省が今回のデータをどこまで真剣に受け止めているかは、閣議決定の内容を見る限り、施設維持・経営安定への具体的な手当てが十分とは言い難い印象を持っています。
『病院経営にも配慮する』との言葉はありますが、単価水準の具体的な設定が先送りされている以上、配慮が形式的なものにとどまる可能性は否定できません」
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中井副会長(右)(撮影・松田隆)

最後は総理の政治的決断

A氏は地域格差の固定化の進展にも懸念を示す。
「大都市圏では高コスト構造ゆえに一次施設の離脱が先行し、地方では分娩件数の不足により中小施設が閉院します。『分娩空白市町村』は現在1041に達していますが、この制度がこのまま進めば、2030年代には1200~1400超の市町村にまで拡大する可能性もあります」
また、以下のようにも語る。
「出産費用の無償化は少子化対策として理念的には正しい方向です。しかし、無償化の受け皿である産科体制が崩壊すれば、産む場所のない『お産難民』を生み出すという逆説的事態になります。
単価水準の設定と地方・一次施設への固定費補助の創設は、法案成立後の省令策定の段階で必ず議論されなければならないでしょう」
出産無償化という美名の下で進みかねない周産期医療体制の崩壊の危機を避けることは、国民の生命と安全を守る上で極めて重要であり、多くの人が理解していると思われる。実現するか否かは、最後は財源の問題に行き着く。
そうであれば、高市総理が政治的な決断をするしかないのかもしれない。
■松田隆
埼玉県生まれ。青山学院大学大学院法務研究科卒業。日刊スポーツ新聞社に約30年在職し、退職後にフリーランスとして活動を始める。2017年に自サイト「令和電子瓦版」を開設した。現在は生殖補助医療を中心とした生命倫理と法の周辺、メディアのあり方、冤罪(えんざい)と思われる事件の解明などに力を入れて取材、出稿を続けている。


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