戦後80年に向けて取材中に、私は長沢春男さん 100歳という男性に出会った。
シベリア抑留経験者として、過去に「死」と隣り合わせの体験をしたが、その中でロシア人女性から「結婚してロシアに残ってほしい」とプロポーズされたという。
当時の状況からしてもあり得ない話に聞こえるが、それを可能にしたのは長沢さん自身がラーゲリで夜な夜な独学でロシア語をマスターしたからでもあった。
これは敵国でもあったロシア人女性、クリスタル・ターニャとの禁断の恋のエピソードでもある。戦後80年、自身もこれまで80年間封印してきた逸話というが、本人の許しを得て、ここに解禁する。知られざるシベリア抑留体験記として。
覚えたてのロシア語で…土下座をして懇願
言葉を理解できたことは、春男さんにとって大きな武器となった。ソ連兵と会話できるようになったからだ。日常生活で意思疎通を図れたことで、ソ連兵からも一目置かれるようになり、いつしかソ連兵は春夫さんに話しかけるようになっていた。
その春男さんが一世一代の大勝負に打って出た。収容所の所長の部屋に行き、ある嘆願をしようと考えていたのだ。春男さんは意を決し、所長の部屋に向かった。

「捕虜の分際で何を言うのだ。生意気な日本兵め」そう咎められ、交渉は決裂し、逆にペナルティを与えられてしまうのではないかという一抹の不安がよぎった。それを打ち消しては浮かぶ予測を何度も何度も脳から消去した。
気づけば、所長のドアの前にいた。ドアをノックすると「入れ」と指示を受けた。ロシア語で挨拶をした後、単刀直入に言った。それは「貧相な食事を改善してほしい」という要望だった。
「実は、どうしても伝えたいことがあります。ノルマを達成できないのは食事の量が足りないからです。もっと増やして下さい」
強い口調で懇願した。もちろん、覚えたての朴訥としたロシア語で。無我夢中だった春男さんは、さらにソ連兵を前に額を床に擦りつける勢いで土下座した。
返ってきたのは意外な反応

「お願いします。このままでは、多くの仲間の体力がもちません。飢えで痩せて死んでしまいます。どうか、仲間を助けて下さい。
地べたに這いつくばるような無様な姿だった。そこには日本兵の矜持など存在していなかった。考えている余裕などなかったというのが正解かもしれない。仲間を助けたい、自分も助かりたい一心の命乞いだったのだから。土下座しながら目をつぶっていると、意外な反応が返ってきた。
「あなたは、面白い日本兵だ。ロシア語を独学で覚えるし、敵のソ連兵に土下座までするし…本当に日本兵か。こんな日本人を見たことがない…たいしたものだ」
その様子を見た所長は、驚きを隠せなかったようだった。春男さんは「敵対心しか持たれていないだろうと想像していたソ連兵からすれば、好意の現れと思ったのだろう」と回顧していた。
「日本兵には内緒にしてほしい」
この直談判からすぐに、食事は改善された。パンの量なども増やされた。この突然の変化に周囲の日本兵は喜んでいた。口々に「それにしても、なぜ飯が良くなったんだ」と語り、笑顔も見られるようになり、士気も上がっていった。
ソ連兵も「食事が良くなれば、もっと仕事もこなせるのか」と改めて気付かされたようだった。すべては、春男の直談判の功績だったが、それは誰にも語らなかったし、ソ連兵にも「日本兵には内緒にしてほしい」と頼み込んだ。

理由は2つあった。ひとつは、日本兵がソ連兵に土下座したことなど、人によっては屈辱的と思えるような事実は伏せておきたかったからだ。土下座は許されるはずもなかった。それは日本兵の面子が許さなかった。敗戦し捕らわれの身となろうとも、日本兵としてのプライドがあった。「生きて捕虜の辱めを受けずの精神を叩き込まれたからな。でも、あの時はそうするしかなかった」と振り返っていた。
その選択に後悔はなかったし、間違っていなかったと春男さんは語っていた。
直談判を誰にも知られたくなかった2つ目の理由は、春夫さんの性格にあった。自慢することが大嫌いだったのだ。「俺が皆のためにやったよ」とも吹聴することもできただろうが、彼はそれが性に合わなかった。

こうした人格も評価されたのか、春男さんは異例の大抜擢を受け、300人を束ねる中隊長になることを命じられたのだ。歳上の人は数多くいたし、力があり仕事ができる人、リーダーシップを発揮している人は他にもいた。しかし、ロシア語を駆使し、部隊のために尽力した春夫さんが選ばれたのだ。
1人のロシア人女性と出会う
そして、この頃に春夫さんの強制労働も変わることになった。炭鉱夫としての強制労働を強いられた極寒の外での仕事から、室内での仕事に変わったのだ。新たな現場は、自動車整備工場だった。
自動車など機械に関してはズブの素人だったが、そんな経歴などお構い無しの異動だった。収容所は同じ場所だったが、朝起きて向かう場所が変わった。収容所からは僅か数百メートルの距離、前の炭鉱も近くにあったため、似たような距離しか離れていないのに、室内で、しかも重労働ではない急激な変化に戸惑った。
春夫さんは、炭鉱夫から自動車整備工としての労働をすることになった。その新たな強制労働先で、1人のロシア人女性を見かけた。名前はクリスタル・ターニャ。陽が差すと黄金色に輝く金髪の髪は肩くらいまであり、サラサラで、なびく髪が印象的だった。
「瞳は丸く大きかったよ」
肌はロシア人特有の抜けるような真っ白で透明感があった。ターニャは3つ年下の18歳で自動車整備工場の事務員として働いていた。ひときわ目を引くルックスだったが、自分には関係ない人だと思っていた。なぜなら、自分は抑留者だったから。手の届かない高嶺の花、遠くから見守っていたのだ。
【CBCテレビ論説室長 大石邦彦】