戦後80年、これまで多くの元日本兵に証言して頂いたが、ここ数年でそのほとんどの戦争の証人らが逝ってしまった。
年々、当事者にあたる取材も難しくなっている。
何度も自宅を訪れ、何度も電話で聞き取りをする中で、徐々に当時の話をしてくれるようになった。過酷な強制労働の中で、生き延びようとロシア語を独学でマスターし、300人の部下を束ねる中隊長にまで昇進する中で出会ったロシア人女性から、ついにはプロポーズまでされた。
これは敵国でもあったロシア人女性、クリスタル・ターニャとの禁断の恋のエピソードでもある。戦後80年、自身もこれまで80年間封印してきた逸話というが、本人の許しを得て、ここに解禁する。知られざるシベリア抑留体験記として。

自宅を訪れると、いつも両親とターニャが迎えてくれた。特に彼女の父親は、明るく、誠実な人柄の春男さんのことが好きだった。何より、人一倍努力をし、短期間でロシア語をマスターした春男さんを、1人の男として買っていたのだろうと推測する。
ターニャと語り合った夢・仕事・故郷
たまたま、自分は戦勝国側にいるが、場合によって立場は逆になり、自分が同じ境遇だったなら?自分は春男さんと同じようなことができたのか?その難しさを一番理解していたのかもしれない。
母親も好意を持ってもてなしてくれた。食事が済むと、2人は2階のターニャの部屋で会話を楽しんだ。それぞれの境遇、仕事、夢などを語り合った。
「ハルオ、あなたのふるさとはどんなところなの?」
彼女が尋ねると、春男さんは目を輝かせながら、四季の美しさに溢れているふるさとの自然を語った。

山形で3人兄弟の末っ子として生まれた。末っ子特有の甘えん坊というか、甘え上手な一面もあって、それが春男さんの人懐っこい性格を形成していた。ボイラーの免許を取得していた父は、鉄道の機関士を目指していたが、当時の山形には職はなく、新天地の名古屋に引っ越して職を求め工場勤務をしていた。
まだ幼さが残る小学6年生、12才の時だった。春男さんは山形出身だが、名古屋で少年時代を過ごし、満州へ出征、そこで終戦を迎えた。しかし、そこから数奇な運命に翻弄されることになった。
ターニャへの思いは次第と恋愛感情に
自らの境遇を語っていると、ふと郷愁に誘われた。日本へ帰りたい。幸せな家族の中に身を寄せていたからだろうか、名古屋の家族の元へ帰りたいという思いが強くなった。しかし、その寂しさを埋めてくれたのがターニャだった。
「私、ハルオといるとすごく楽しいの」
そう言ってくれるターニャに、いつしか特別な感情を抱いていたのも事実だ。2人の関係は、最初は友好的なものだったが、次第にそれは恋愛感情へと移行していった。

ある時は、ダンスパーティーに誘われた。木造の体育館のような建物で繰り広げられたダンスパーティー。地元の男女が集い、ロシア民謡に合わせてダンスをしていたというが、その場所に春男さんも何度か誘われ、ターニャをはじめとするロシア人女性らと踊ったことがあったという。
ダンスなどしたこともなかったが、見様見真似と、現地のロシア人らの手ほどきをうけてステップを刻んだ。ロシア人にとっても外国人でもある日本人は珍しかったようで、日本人男性を意味する「ヤポンスキー、ヤポンスキー」と呼ばれて注目を集めているのが不思議だったと回顧していた。
春男さんと一緒に踊るために、順番待ちの行列もできたというから驚きだ。辛いシベリア抑留生活の中で、たとえ一時でも青年らしい時間を過ごせたと聞き、私は取材者というより、1人の人間としてなにか救われたような気がした。
ターニャの父から唐突に
何度も家に招かれ、何度も食事を共にし、ターニャやその両親と関係を深めていった春男さん。いつしかターニャだけでなく、両親の信頼も勝ち取っていた。春男さんから聞く日本の話には、とても興味があったようで、いつも熱心に耳を傾けていた。そんな折、父親が唐突に話を切り出してきた。
「ハルオ、うちの娘と一緒になってくれないか?」
「えっ」
春男さんは驚くというより、呆気にとられていた。一緒というのは結婚を意味しているからだ。出会ってからすでに2年の歳月が流れ、ターニャもすでに20歳を越えていた。ロシアでも結婚してもおかしくない年齢ではあるが、その年齢より、日本人の自分にアプローチしてきたことに呆気にとられたのだ。
「日本人でも良いのですか?」
思わず質問した。
「日本人かどうかなど関係ない。君に娘のターニャをもらってもらいたい」
そして、ほどなくしてターニャからも「ハルオ、一緒になって」とプロポーズされたと言う。
知る由もない故郷の状況
その言葉は春男さんの心に刺さった。なぜなら、日本兵かどうかなど、当時の立場で判断するのではなく、1人の人間としての生き方を見てくれていたからだ。その目線が無性に嬉しかった。シベリアで捕虜になってからは、捕虜として生きてきた。ロシア人も、捕虜として自分たちを見ていた。その目線は痛いくらい感じていたのだ。
ターニャは美しく、素直な性格で、何より自分を慕ってくれていた。日本人であることなど、気にする素振りも見せず、こちらも1人の人間として扱ってくれていた。もちろん、言葉の壁を克服したことも大きいが、彼らの普段の態度を見ても、国境の壁などは感じられなかった。
日本は戦争でアメリカに完膚なきまでに打ちのめされ敗れた。敗戦国となった日本には、アメリカ軍が駐留し実効支配していた。祖国日本は存在こそしているが、実際はどうなのか?シベリアでロシア人に情報統制される管理下にいては、知る由もなかった。

自分には帰る国などはもうない、帰る家などないのかもしれないと思っていたが、それでも祖国への未練もあったし、帰れないとなると、郷愁は増すばかりだった。
「自分はどうするべきか?」
導いた答えは…
自問自答する日々が続いた。帰りたいとはいえ、帰れる保証など全くなかった。ならば、日本に別れを告げ、このシベリアの地で、仕事上での地位を向上させ、新しい生活基盤を築くことを選択するべきではないか。日本での未来を展望することなどできない中、日本、ソビエト両国の間で葛藤が芽生えた。しかし、春男さんの心の奥底には揺らがざる祖国への思いがあった。
悩みに悩んだが、結果は最初から決まっていた。春男さんはひとつの答えを導き出し、ターニャの父親に思いを告げた。
「私は日本へ帰りたい。私は日本人だから」

その答えを聞いた父親は「やはりそうか」と肩を落としたが、同時に春男らしいと呟いた。ちょうどその頃、ターニャ親子にもある転機が訪れようとしていた。それは春男さんとの永遠の別れを暗示するような通達だった。
【これまでの記事】
・100歳抑留者が初めて明かす戦後80年の秘密とは?①
・ロシア人女性との“禁断の恋” 命つないだロシア語への執念②
・強制労働先での出会い「瞳は丸く大きかった」③
・忘れられない ターニャの「ボルシチ」④
【CBCテレビ論説室長 大石邦彦】