昭和23年に名古屋市内で撮影された写真。中央に映る黒ずんだ建物は、今も名古屋市内に建っています。
まずは写真の建物を知っているか、名古屋の街で聞いてみました。
(街の人)
「ちょっと分からないですね」
「県庁とか、その辺り?」
「市役所っぽい」
「お役所とかその関係?」

写真の建物は、名古屋市役所なのか‥
(若狭敬一アナウンサー)
「似てるよ、面影残っていません?そっくりですよ。壁と窓の感じ、フォルムは大体一緒」

本当に名古屋市役所なのか…
市役所の施設管理の担当者に、直接聞いてみました。
(若狭)「名古屋市役所じゃないか?という意見が多い」
(施設管理担当者 助川高浩さん)「市役所ではないですね、違います。戦後だと、県庁と並んで建っている」

終戦の翌年に撮影されたカラー写真には、手前に県庁、奥には市役所が。
探している建物も、ほぼ同じ時期に撮影されているが、県庁には特徴的な屋根が、
市役所には時計塔があり、別の建物ということが分かる。

市役所を出ようとしたところ、守衛さんにも聞いてみました。
「松坂屋じゃないですか。親戚(の家)が近くにあった。そんな形のように思い出す」


新たな情報!松坂屋?
写っているのは、本当に松坂屋なのか?
松坂屋の歴史に関する資料を管理していて、当時の外観を知る担当者に話が聞けました。
(若狭)「この写真が松坂屋さんではないかと…」
(J.フロントリテイリング史料館 中島基晴さん)「(松坂屋で)間違いありません。今でいう本館になります」

写真の建物は、今も栄の中心部にある松坂屋名古屋店でした。
戦前に撮影された松坂屋と終戦後の写真を比べると、確かに形が一致していることが分かる。


壁は黒ずみ、周りには瓦礫…空襲で焼けた跡

写真の松坂屋をよく見ると、壁は黒ずみ、周りには瓦礫が。
その原因は、終戦間近1945年の名古屋空襲。
松坂屋が煙を上げながら燃えている様子が、克明に記録されている。

その爪痕が、今も屋上にあります。
案内されたのは、社員もめったに立ち入らない、ある部屋。
(若狭)「うわ黒い!この『すす』みたいになってるのが全部…」
(中島さん)「戦争の時に燃えて残った跡になります」
(若狭)「いまだに残っているんですね。触っても大丈夫ですか。『当時のすす』だと思うと、感慨深いものがある」


アメリカの指令は「名古屋を消せ」

戦時中、名古屋は軍需産業が盛んだったため空襲の主な標的に。アメリカ軍の名古屋空襲は、計63回。2500あまりの爆撃機が、爆弾を雨のように落とした。
失われた命は、7858人。街は焼け野原に…

名古屋空襲を経験した、井戸早苗さん(87)。当時の体験を語り継いでいる。
(名古屋空襲を経験 井戸早苗さん)
「アメリカの指令は『名古屋を消せ』。警戒警報は今でも覚えている。6歳だったけど1人で逃げなきゃいけなかった。電線が下がった所に髪の毛や衣の切れや…爆風で。この怖さは言い表せない」

「上司・部下関係なく灰を出して…」

当時の記録によると、松坂屋は南側の道路に焼夷弾が落ち、10日間にわたって建物の内部が焼き尽くされた。
(J.フロントリテイリング史料館 中島基晴さん)
「名古屋市内も焼け野原で、松坂屋の店舗と市役所くらいしか建物として分かるものはなかった。上司・部下関係なく灰を出して、そこからが復興のスタート」
松坂屋では、空襲の記憶を忘れないよう、この場所を残しているそうです。

ちなみに、この写真が撮られた瓦礫が並ぶ荒れ果てた土地は、今のどの場所なのか?
(若狭)
「CBCが開局75年。その前にNHKがあったとすると、テレビ塔もそれくらいの歴史があるのかもしれない」
向かったのは、完成して今年で71年のテレビ塔。名古屋の歴史に詳しい、社長の大澤さんに話を聞きました。

久屋大通公園には、民家や学校などが密集していた
見せてくれたのは、戦前の栄周辺の地図。

(若狭)「焼け野原になっている場所は、この辺り?」
(大澤社長)「こっち、この辺り」
大澤さんが指さしたのは、松坂屋の東側、黄色の部分。

今のどの辺りかというと…?
(大澤社長)「久屋大通」
(若狭)「よく見ると苗字が書いてあるということは、今の久屋大通公園の辺りは民家だった?」

現在の写真と照らし合わせると、元々は民家や学校などが密集していた場所に、久屋大通が作られたことが分かる。
栄の街並みを映した戦前の写真。
名古屋城の城下町として栄え、そこには多くの人々の営みが。

名古屋は日本のリーダー!復興計画は終戦から4か月後
その後、名古屋空襲により、栄は焦土と化してしまう。
しかし…
(大澤社長)
「名古屋は日本のリーダー。終戦後、完璧なほどできたのが名古屋の都市計画」
焼け野原となった名古屋は、全国でも類を見ない速さで復興への道を歩み始める。
市民の心に希望の光をともすため、名古屋市が計画したのは、テレビ塔と幅100メートルの久屋大通を作ること。終戦からわずか4か月後のことだった。

(若狭)
「終戦の年の12月には『立ち上がるぞ』という姿勢だった?」
(大澤社長)
「構想を出した、大構想。100メートル道路は全国で24本計画された。それがGHQによって止められた。復興計画に、こんな100メートル道路はけしからんと」
GHQによる財政の引き締めなどで、全国各地の構想は計画段階で頓挫。しかし、名古屋はいち早く工事に取り掛かっていたため、計画は遂行された。

そして、終戦からわずか9年でテレビ塔が完成。
当時の映像が、CBCに残されていた。
(当時の音声)
「テレビ塔が完成したのは昭和29年6月。この100m道路は名古屋の都市計画のシンボルです。緑の幼いことが印象的です」


一度は焦土と化した地に誕生した久屋大通。戦後復興の象徴であり、名古屋の街づくりの礎となった。
(若狭)
「昭和23年には松坂屋と民家しかなかった。随分、景色が変わりましたね」
(大澤社長)
「感無量。本当に名古屋は早く復興を遂げた、全国のモデル。『こんなにも変わりましたよ』と、写真を撮ったカメラマンにお伝えしたい」
