夏の甲子園 準決勝で、2安打1打点の活躍を見せた県岐商の4番の坂口路歩(ろあ)選手。高校最後の夏に起こした快進撃の裏には、親子3代にわたる絆の物語がありました。
坂口選手の父・輝光さん(43)は県岐商野球部のOBで、岐阜市にある衣類品などのプリント加工会社「坂口捺染」の社長。地元では「金ぴか社長」として知られる有名人です。
この日は準々決勝の翌日。輝光さんは電話対応に追われていました。
(坂口選手の父 輝光さん)
「きのう従業員が準決勝の応援に行きたいと言っていたから。俺が言っとったんやって。『息子が3年生で甲子園に行くかもしれんぞ』と2年前から。『そうなったら行こうな』と言っていたけど。応援に行かせるとなると、まあまあ大変でさ」

輝光さんが地元岐阜に帰ってきたのが前日の午後9時半。そこから従業員が準決勝の応援に行けるよう会社の業務スケジュールを徹夜で組み直しました。その上で従業員や有志163人での応援団を組織、人数確認などに大わらわでした。
(坂口選手の父 輝光さん)
Q.ほぼ寝ていない?
「風呂も入ってないし。
“あの伊藤さん”から突然の電話

その後も、ひっきりなしにかかってくる確認電話の嵐。と、ここで思わぬ人から連絡が!
(坂口選手の父 輝光さん)
「伊藤って表示されているけど、どの伊藤やろ?一番男前の伊藤!?…英明さん?うそでしょ、マジで!ありがとうございます」
なんと、岐阜出身の俳優、伊藤英明さんからの祝福電話でした。輝光さんと伊藤さんは岐阜を盛り上げるためのイベントを通じて親交を深めた間柄。

(伊藤英明さん)「(輝光さんの愛称)テルちゃんの息子さんじゃないかなぁ」
(坂口選手の父 輝光さん)「そうなんですよ」
(伊藤英明さん)「本当にうれしいです、僕も」
(坂口選手の父 輝光さん)「英明さんから電話あると思わなかった」
(伊藤英明さん)「県岐商が母校だったらなぁって。俺、岐南工業だもん。頑張ってと伝えて」
息子の晴れ舞台を全力でサポートする父、輝光さん43歳です。
小学3年生の頃からバッティング指導を行った祖父

さらに坂口選手の、もう一人の強力なサポーターはこの方。祖父の清貴さん73歳です。
(坂口選手の祖父 清貴さん)
「これがティーバッティング用のネットです。小学3年生の頃から使っている。
Q.指導していたのは?
「私です」

坂口選手が小学3年生の頃から毎日のように自宅の庭でバッティングの指導を行っていました。祖父の清貴さんもまた県岐商野球部OBで、なんと甲子園にも出場経験が。
(坂口選手の祖父 清貴さん)
「きのうの準々決勝でも打って『おじいちゃんのおかげ』と言ってくれた。

坂口家は3代続く「県岐商一家」。清隆さんはセンバツでピッチャーとして登板したものの1勝を上げることは、かないませんでした。
また父の輝光さんは当時、甲子園のベンチに入れず、グラウンドに立てませんでした。
親子3代にわたる夢の甲子園での勝利。坂口選手は玄関先の、この練習場で2人の思いを託されてきたのです。
(坂口選手の祖父 清貴さん)
Q. 坂口選手との、ここでの時間は?
「かけがえがなかった。野球のプレーも辞めていたので。野球を見るか、教えるぐらいしかなかった。本当に生きがいだった」
坂口選手に野球のイロハを教えたのが祖父の清貴さんなら、岐阜大会前の最大のピンチを救ったのが父・輝光さんでした。
甲子園の予選前に全治3か月のけが…

(坂口選手の父 輝光さん)
「これは酸素ルームですね。5月半ばかな?息子がデッドボール当たって骨折して。甲子園予選まで2か月ぐらいで『間に合うかな?』と思って」
診断は全治3か月。緊急手術でプレートとボルトを入れて患部を処置。

(坂口選手の父 輝光さん)
「酸素ルームを買ってから、しょっちゅう野球部の子が来るようになった。友達と野球部同士で入って、その間に野球の話ができる。たまには『焼肉食おうぜ』って、みんなで焼肉食って。それが1か月くらいあったので、その期間で結束力が深まった」
「2人のおかげで、この舞台に立てた」

親子3代にわたる県岐商ファミリーの絆が支えた甲子園での快進撃。息子の最後の大舞台に輝光さんは。
(坂口選手の父 輝光さん)
「なんで甲子園行って、こんなに嬉しいのか。勝ったから嬉しいんじゃない。みんなが喜んでくれるから嬉しいということに気づければ。今後の人生も、きっとそういう生き方をすると思う。野球を通して甲子園を通して気づいてくれたら」
今大会で幾度となく殊勲打を放ち、そのバットで県岐商を救った4番の坂口路歩選手。
(県立岐阜商業 坂口路歩 選手)
「おじいちゃんに関しては、練習も付き合ってくれました。お父さんに関しては、練習をする環境を整えてくれた。2人のおかげで、この舞台に立てたので本当に感謝しかありません」