戦後80年企画の取材中に出会った名古屋市に住む長澤春男さん(100)。2年前に初めて会った時は98歳で、一人でどこにでも出かけるほど足腰も元気だった。
春男さんは、強制労働に耐えながら、独学でロシア語を学び、中隊長にまで昇進し、その後にロシア人女性からプロポーズされた。
これは敵国でもあったロシア人女性、クリスタル・ターニャとの禁断の恋のエピソードでもある。戦後80年、自身もこれまで80年間封印してきた逸話というが、本人の許しを得て、ここに解禁する。知られざるシベリア抑留体験記として。
脳裏に浮かぶ彼女との思い出
シベリアを離れる翌朝、朝陽がシベリアの大地を照らしていた。この朝陽は、過酷な1日のスタートを意味していたからか、これまでは清々しさを感じることはあまりなかったが、その日だけは違った。
毎朝、3年以上も顔を合わせた朝陽も、心の持ちようで目にする景色までこうも変わるものなのだと実感せずにはいられなかった。最後の食事も、いつもと同じ食べ慣れた固い黒パン。

シベリアでの最後の食事だからといって、少しサービスしてくれるような寛容さはなかった。明日も、その翌日も、この暮らしが続くのではないかと思わせるほど、いつもと変わらぬ朝食だった。
食事を済ませた後、春男さんはターニャのもとに向かった。何度も通った道のり、様々な思い出が去来した。自分が捕虜であることの罪悪感を抱きながら、この道をやや早歩きしたことも鮮明に脳裏に浮かんだ。2人で一緒に歩きながら、他愛もない話をしたり、お互いの国のことを教え合ったり、自分たちの未来のことを語り合ったりした。
ターニャと過ごす最後の時間
いつものように、重厚な木のドアをノックすると、ターニャがドアを開けて、少し寂しそうな表情を浮かべながら、こう呟いた。
「ハルオ、最後の日に来てくれてありがとう」
返す言葉もなかった。
「淋しくなるわ…じゃあ、元気でね、ハルオ」

会話は短く簡潔だった。最後に、彼女とお互いの左の頬を重ねて頬ずりをした。彼女の温もりを肌で感じるとともに、彼女の深い悲しみも頬をつたう冷たい涙で感じた。
自分は、ターニャにどれだけ助けられただろうか。全く色のない灰色のシベリアの生活に彼女は彩りを入れてくれた。暗い捕虜生活にまばゆいばかりの光を照らしてくれた。

つらいことも、悲しいことも、苦しいことも、彼女と会っている時だけは忘れさせてくれた。
その後の春男さんの人生を振り返っても、あの最も苦しい時に咲いていた1輪の花に感謝しかなかった。それは80年近くが経過しても決して色褪せることはなかった。

ターニャからのプレゼント
春男さんの旅立ちの日、それは捕虜として3年2か月に及ぶ収容所生活が終わることを意味していた。ターニャは、最後にあるものをプレゼントしてくれた。少し大きめの瓶に入った液体で、いい匂いが鼻腔を刺激した。
「これは何なの?」

春男さんの問いにターニャが答えた。
「シベリアから日本までは、何日も何日もかかるんでしょう。当然、シャワーも浴びられないでしょう。箱詰めの列車や船の中で、少しだけでも快適に過ごして欲しいの」
それは、ターニャ特製の香水だった。シベリア鉄道から船で日本へ向かうには、順調に進んでも、ある程度の日数を要する。
春男さんを通して、捕虜の過酷な環境を間近で見て理解していたからこその最後の贈り物だった。春男さんは香水の入った瓶を胸に抱えて、収容所に向かった。
叶わぬこととわかっていても…
「では、またね」
その言葉に嘘はなかったが、もう会える保証などどこにもなかった。
ターニャは、ロシアの西側にある隣国ウクライナへ。自分はロシアの東側にある日本へ向かうのだから。第二次世界大戦を経て、より国力を強め、西側諸国に対抗して、ソビエトを中心として東側諸国が共産圏を形成する中、会うことは難しかった。

一方、日本は、アメリカに占領され、GHQによる占領政治が敷かれ、西側諸国に与していたのだから。それでも「またね」と再び会う約束を取り交わした。それがお互いに叶わぬことだと分かっていても。
忘れかけていた母国の匂い
日本で、すでに3年前に終戦を迎え、それまで日本国民を支えていた概念も、ものの見方も、精神性までもが真逆へ振れた時代だった。その劇的に時代が変貌を遂げるうねりを、外から見ていた春男さん。
自らは、終戦時の思想、概念を持ち合わせていただけに、そもそも変わり果てた祖国に帰りたかったのか?私は聞いた。

「その時、ターニャと一緒にウクライナに行こうとは思わなかったのですか?」
春男さんは「思わなかった。やはり、日本へ帰りたかったから」と即答した。
産まれてから20年ほど日本で暮らし、日本人として生きてきた。特にシベリアへ渡ってからは、日本人であることをむしろ意識し、いつ殺されるかもわからない極限の世界で生き抜いてきた。だからこそ、人一倍「祖国へ帰りたい」という切なる思いと「自分は日本人だ」という自負が増していったのかもしれない。
すし詰めの列車と船を乗り継ぎ、ようやく帰国した。京都にある舞鶴港では多くの日本人が手を振って出迎えてくれた。ここが夢にまで見た祖国、日本なのだ。初めて見る舞鶴の景色なのに、なぜか懐かしい匂いがした。忘れかけていた母国の匂い。ここは日本なのだ。
一方で、目を閉じると日本を離れてからの4年余りの出来事がフラッシュバックのように蘇ってきた。
長澤春男さん、当時23歳。持ち前のバイタリティとアイデアで苦難を乗り越え、自身の未来を切り拓いていった青年は、ついに生きて母国の土を踏んだのだった。
〈これまでの記事〉
・100歳抑留者が初めて明かす 戦後80年の秘密①
・ロシア人女性との“禁断の恋” 命つないだロシア語への執念②
・強制労働先での出会い「瞳は丸く大きかった」③
・忘れられない ターニャの「ボルシチ」④
・「ハルオ、私と一緒になって」 知る由もない祖国の状況・未練⑤
・2人に訪れる転機 忘れられない彼女の表情⑥
【CBCテレビ論説室長 大石邦彦】