江別「ËBRI(エブリ)」、自治体による廃工場の復活|産業遺産のM&A

埼玉県・深谷市とともに、日本の煉瓦製造を支えた北海道江別市。特に同市の野幌地区には、今も街のそこかしこに煉瓦造りの建造物が建っている。


ただ、日本有数の煉瓦産地といっても、煉瓦産業は明治期から昭和中期にかけて全盛期を迎え、以後は衰退の一途をたどる。江別市でも現在はほんの数社が事業を行っているにすぎず、廃業した企業も多い。

その江別の煉瓦建造物のなかで、現在多くの地元住民を迎えているのが、旧ヒダ工場である「ËBRI」という商業施設。もともと、ヒダ株式会社という窯業会社の工場であり。21世紀を迎える直前にヒダは廃業。その後2016年、江別市の人気商業施設として蘇った。

愛知県「常滑」から移住した一人の男

札幌から東に10kmほど、江別市の野幌において煉瓦製造が始まったのは明治中期の1891年のことだった。野幌は、札幌はもちろん小樽にも近く労働力が確保でき、赤く発色させる鉄分が多く含まれほどよい粘り気のある粘土が豊富に産出され、かつ、煉瓦製造の初期に導入されたのぼり窯の燃料用の薪が容易に得られたとされる。

1889年に設立された北海道炭鉱鉄道会社(北炭)が設立早々の1900年頃、煉瓦工場を野幌に設置して操業を開始する。その後、野幌は北海道、さらに日本の煉瓦生産の中心地として栄えた。

この地に目をつけ工場を設立したのが、1923年に愛知県常滑市より移住した肥田房二という人物だった。肥田は1941年に肥田土管工場を東野幌に設立し、翌1942年には北海道興農公社と提携して農業用土管の生産を進めた。

北海道興農公社とは戦時期の1941年4月に「国策第一主義、公益優先」「北方農業建設」を理念として設立された国策会社で、農地改良事業では農地をめぐらす土管の埋設を急務としていた。

当時、煉瓦は一般に知られるブロック状のものとともに、土管としても広く使われていた。

肥田土管工場が操業していた頃、成型された煉瓦は干場(乾燥させる場所)まで人力で背負っていくか、工場敷地内にレールを敷き、 トロッコで運搬していたが、肥田はより融通の効く煉瓦運搬用リヤカーを考案した。その後、このリヤカーが多くの野幌の煉瓦工場でも使われるようになったという。

戦後1947年5月、肥田土管工場は肥田製陶株式会社と組織変更し、初代社長に肥田房二が就いた。ところが、1951年6月に肥田製陶は大惨事に見舞われた。火事で工場が焼失してしまったのである。

煉瓦のまち・野幌のシンボル的存在に

いったんは肥田製陶における煉瓦造りの火は消えたかに見えた。だが、1952~1953年にかけて肥田製陶では工場再建を進めた。その工場が、現在も函館本線「野幌」駅に近くの沿線に見られる煉瓦工場建物である。工場建物面積は1291㎡。北の大地にスッと伸びる屋外煙突は、野幌、江別のシンボル・タワーのようだったといわれる。

肥田製陶の野幌工場はこの時期、建築資材置き場、倉庫として利用され、生産を休止していたが、1953年頃には工場の再操業を果たした。その背景には、北海道電力から電気暖房器用の蓄熱煉瓦の生産を委託されたことがあった。

電気暖房器用の蓄熱煉瓦とは、電気ストーブに使われる部品で、夜間電力を蓄えて部屋の温度を一定に保つ効果のある煉瓦である。

さらに、肥田製陶では碍子(がいし。電気の流れを止める絶縁体)の製造依頼も受け、北海道で初めて白生地を用いた陶器の製造を行った。肥田の郷里・愛知県常滑市は常滑焼の産地であり、伊奈製陶(INAXを経て現LIXIL)の本社があった地であり、近隣の半田市には大手の日本ガイシの本社があり、まさに“製陶のメッカ”。肥田はまさに江別・野幌の地で故郷に錦を飾ったといえるだろう。

そして1971年、社名を肥田製陶から株式会社ヒダに改称した。だが、煉瓦の需要はコンクリートの普及により急速に減少していく。その産業構造の変化、需要減少による業績不振に見舞われ、ヒダは1998年に自主廃業した。

ローカル商業施設「ËBRI」として再興

廃業しても残る工場建屋と土地。その処分には同業者も縮小する需要の前に動きようがなく、他産業も倉庫等での利用もむずかしく、手をこまぬいた。そこで手を挙げたのが地元自治体の江別市だった。

市は2000年10月に、この工場を歴史的建造物の保存活用のために購入し、保存事業に乗り出した。

おそらく煉瓦博物館や資料館などの公共施設の利用も考えただろうが、江別市がとった対応は違った。2002年3月、建物利活用の一環として、建物の一部を利用して「江別グレシャムアンテナショップ」を開設した。グレシャムとは米国オレゴン州にある江別市の姉妹都市。姉妹都市交流の活性化を意図したアンテナショップである。

江別「ËBRI(エブリ)」、自治体による廃工場の復活|産業遺産のM&A
一際そびえる旧ヒダ工場の野外煙突(江別市)

シンボル的存在の屋外煙突が復元されたのは2003年のこと。さらに2014年には保存活用に関する事業者を公募し、ストアプロジェクトという会社が選定され、運営を担うこととなった。ストアプロジェクトは北海道を中心に、商業空間の企画、立案、建築設計、商環境デザイン・設計、製作・施工監理、施設運営等を行っている。

2015年12月、「江別グレシャムアンテナショップ」が「江別アンテナショップGET’S(ゲッツ)」に改称した。姉妹都市のオレゴン州グレシャムと江別市、また友好都市の土佐市の3都市の特産品とを扱うアンテナショップだ。同時に改修された旧ヒダ工場がローカル商業施設「ËBRI」としてプレオープン、2016年3月にはグランドオープンを迎えた。

ËBRIとは、EBETSU(江別)とBRICK(レンガ)の造語から生まれた名称だ。江別内、道内を問わずの人との交流、新商品開発、地元市民が集う拠点をめざしている。

外観は煉瓦造りの工場の姿を活かしているので、一見すると商業施設のようには見えない。だが、地元市民の車の往来で、ここが商業施設いわゆるSCであることがわかる。館内に入ると、オーガニック野菜、海産物などの産直品市場のほか、アンテナショップ、レストラン、雑貨店などが入居し、煉瓦造りを活かしたちょっとオシャレな空間だ。民営の公共施設でもあり、各種の体験イベントも開催されている。

2019年3月、ËBRIは国の登録有形文化財に登録された。また、2020年7月には第17回公共建築賞「地域特別賞」を受賞している。自主廃業した旧ヒダ工場は今、江別市の産業遺産であるとともに、煉瓦のまち江別のシンボル的存在となっている。

文:菱田秀則(ライター)

編集部おすすめ