多摩都市モノレール「高松」駅の北東そばに立つ「立飛の給水塔」。その第一印象は、小規模ながら「バベルの塔」を連想させる。
「立飛の給水塔」は現在、立川市に所有する約98万㎡の不動産を社会資本財と捉え、不動産賃貸から開発・管理、ホテルなどの事業を展開する立飛ホールディングスの敷地内に建つ。給水塔は同社が立川飛行機と称していた時代の建物で、いつでも一般に開放されているわけではない。それでも塔と碑の姿を柵越しに、文字どおり垣間見ることができた。
五重の塔にも似た様式美
給水塔が建設されたのは1938(昭和13)年のこと。4階建てで、4階の上、写真で見ると窓のない最上部には大きな貯水槽があり、当時は立川飛行機の南地区(現在給水塔がある区画)全体に工業水を供給していた。最上部の水槽内容量は50トンであり、給水塔としては平成17年頃まで使われていた。
塔は上の階に上がるに従って断面(平面形)が小さくなっていく。このことを建築用語で「逓減」という。全国に残る五重塔の逓減は1階を「1.0」とすると、0.6から0.7になる。法隆寺五重塔では0.5。この逓減率は安定感のある重厚な印象とともに、すらりと背が高く見える効果がある。
ちなみに、この給水塔の逓減はそれよりは少々ビルっぽい「0.8」。そう聞くと、五重塔から近代ビルの過渡期にあって比較的新しい時代に建立した塔であることを感じる。
「赤とんぼ」や「隼」などの軍用機をつくった会社
「立飛の給水塔」が現役で活躍していたのは、立飛ホールディングスが立川飛行機であった時代だ。立飛ホールディングスは1924(大正13)年11月、飛行機の設計・製作・販売を目的とする石川島飛行機製作所として創業した。当時の工場は東京都中央区月島にあった。1930(昭和5)年には工場を立川に移し、1934年には通称「赤とんぼ」と呼ばれた軍用機を製作した。
「赤とんぼ」は大日本帝国海軍の練習機の1つ。オレンジ色の塗装が印象的だが、「第二次大戦末期にはパイロット不足から、ろくな訓練も受けずに予科練生が実戦に駆り出された」「機体をオレンジ色からモスグリーンに塗り替え、特攻機としても使われた」など“悲劇の名機”ともいわれる。
石川島飛行機製作所から立川飛行機に商号を変更したのは1936年7月のこと。そして工場の給水のため「立飛の給水塔」を建てた。中島飛行機による「隼」の生産を引き継いだのは第二次大戦のさなか、1943年のことだった。「隼」は第二次大戦期の大日本帝国陸軍の主力戦闘機で、海軍が擁した「零戦」と双璧をなす戦闘機だった。
時代の波にもまれた立川飛行機
立川飛行機は終戦により時代の波にもまれ、“きりもみ状態”になっていく。1945年9月に事業が閉鎖され、資産はGHQに接収された。当時、人員は4万2000人を超える大工場だった。この接収時代に、米軍が描いたとされたイラストが給水塔内部に残っている。
会社としては1946年から1955年までの約10年、会社経理応急措置法により特別経理会社に指定された。特別経理会社とは、戦後の混乱期に戦時補償金などに関する債権・債務の整理について、一時的に「新勘定」と「旧勘定」に分離して経理を行う措置を講じられた会社のこと。その中で1949年11月、企業再建整備法により、立川飛行機が現物出資し、第二会社として「タチヒ工業」(新立川航空機)を設立した。
今日でもまれに見られるが、債務超過の会社から優良事業だけを会社分割や事業譲渡で別会社(第二会社)へ分離し、不採算事業と過剰債務は旧会社に残して清算する事業再生手法、いわゆる「第二会社方式」での再生だった。立川飛行機はこの計画の認可・決定により解散の登記を行った。
2社に分かれて再生の道を歩む
1949年11月以後、立川飛行機は新立川航空機と立飛企業という2社に分かれたかたちで経営を進めていった。
「タチヒ工業」(新立川航空機)としては接収を免れた設備をもとに、鈑金関係の各種製品の製造販売業務を始める。1951年には立飛工業に、1952年には新立川航空機に商号を変更。JA-3070、JA3094などの軽飛行機を完成させ、1955年にはその技術を活かし「タチヒ電気洗濯機」の生産を始めた。
米軍に接収されていた立川工場の返還を受けたのは1973年のこと。1970年代前半、同様に米軍に接収されていた施設の返還が全国で続いていたから、その1つであったのだろう。沖縄が本土に復帰したのは1972年5月のことだ。
この頃から、新立川航空機ではもともと所有していた広大な敷地を活かし、現在の主力事業である不動産賃貸業務を始めるようになる。なお、航空機分野では1970年代にジェットエンジンの部品、宇宙ロケット用部品の生産を始めるまでになった。
立川工場に建設された新棟をかつての同社江ノ島工場に集約し始めたのは2000年代に入った頃からだ。この時期(2011年8月)、新立川航空機と立飛企業の2社に分断していた所有不動産を一体開発するため、当時の2社の社長によるMBOを実施した。MBOとは「Management Buyout(マネジメント・バイアウト)」の略で経営陣による自社買収のこと。そして2012年1月、立飛ホールディングスという持株会社を設立し、株式交換により新立川航空機は立飛ホールディングスの完全子会社となった。
広大な敷地を活かした不動産開発
一方、旧立川飛行機は1951年4月、立飛通商(現立飛プロパティマネジメント)として設立され、リスタートを切った。それまでも「タチヒ、立川飛行機、立飛企業」などとして親しまれてきたが、正式に立飛企業に商号を変更したのは1955年5月のことである。
米軍に接収されていた資産が返還されて以降は、同社土地建物の賃貸、不動産賃貸部門を強化する。1990(平成2)年にはビル・サービス部門が独立し、平成造園(現立飛リアルエステート)を設立。なお、持株会社化以降の2012年10月には、多摩モノレール関連の開発対象外の不動産の所有・賃貸を立飛リースホールドという新設会社に分割している。
立川北部の大規模開発に貢献
立川市の地図を開くと、多摩都市モノレール「高松」駅から「泉体育館」駅にかけて広大な土地が広がっているのがわかる。西には陸上自衛隊立川駐屯地・通商「立川飛行場」や国営昭和記念公園が広がり、東には大型商業施設が並ぶ。
持株会社化した立飛ホールディングスとしては、このうち多摩都市モノレール立飛駅南東側の大型商業施設誘致計画の公表に伴い、不動産開発事業を強化した。立飛開発(現立飛プロパティマネジメント)という会社で30年あまり運営してきたゴルフ練習場事業を終了し、「ららぽーと立川立飛」や「アリーナ立川立飛」「ドーム立川立飛」など周辺施設の開業や運用開始に携わってきた。
2024年11月には立飛グループは創立100周年を迎えた。飛行機の製造から不動産開発事業へ。「立飛の給水塔」は昭和から平成にかけて多彩な時代の変遷を、バベルの塔のように見守ってきた。
文・菱田 秀則(ライター)
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