「ウィルキンソン」歌劇のまちに息づく炭酸工場|産業遺産のM&A

「歌劇のまち」として、また大阪のベッドタウンとして発展した兵庫県宝塚市。その宝塚は日本有数の「炭酸のまち」でもある。

今はさまざまな飲料メーカーが炭酸を使った飲料を販売しているが、その大もとはこの宝塚にある。

1914(大正3)年4月、阪急電鉄の創始者である小林一三によって宝塚温泉の旧・室内プールを改造した「パラダイス劇場」で宝塚唱歌隊(宝塚少女歌劇)の公演が行われた。この宝塚歌劇の発祥年から遡ること30年ほど前に、ジョン・クリフォード・ウィルキンソン(以下、ウィルキンソン)というイギリス人実業家が宝塚で炭酸鉱泉を発見し、飲料として商品化した。それが『ウィルキンソンタンサン』だ。

人ひとりが抜ける鉄橋の向こうに広がっていた工場

阪急宝塚線「宝塚」駅を降り、西へマンション群・住宅街を抜けると、武庫川べりに水道局の施設がある。武庫川に架かるのは、人ひとりがやっと通れる日本一細い生瀬水道橋。その橋の対岸に、かつてウィルキンソンが興した『ウィルキンソンタンサン』の宝塚工場があった。工場は当初、生瀬水道橋の上流の現宝塚市内(紅葉谷)にあったが、明治期に水道橋の対岸の西宮市生瀬に移した。『ウィルキンソンタンサン』宝塚工場は、宝塚市・西宮市の市境で生産を進めていた。

「ウィルキンソン」歌劇のまちに息づく炭酸工場|産業遺産のM&A
『ウィルキンソンタンサン』宝塚工場跡
生瀬水道橋を渡ると『ウィルキンソンタンサン』宝塚工場跡(右手のマンション周辺)

炭酸の黎明期に躍り出た「世界的なタンサン王」

『ウィルキンソンタンサン』の生みの親、ウィルキンソンは1852(嘉永5)年、イギリスで生まれた。明治初期の1872(明治5)年、若き実業家として日本にやってくる。ウィルキンソンは当初、E・H・ハンター商会グループの機械精米会社に勤務していたとされる。E・H・ハンターとは範多財閥および大阪鐵工所(のちの日立造船、現カナデビア<7004>)の創業者。造船業を中心に各種産業の育成を通じて日本の近代化に尽力した人物の一人だ。

ウィルキンソンは1889年頃、狩猟中に宝塚で良質な炭酸鉱泉を発見した。鉱泉水をロンドンの試験場に送って分析すると、食卓用はもちろん医療用として優良な鉱泉であることが判明した。そこで、この鉱泉の瓶詰めを企画。翌年には必要な資材、設備をイギリスから取り寄せ、瓶詰めした鉱泉の生産・商品化を開始した。

発売したのは、のちに『TANSAN』と呼ばれる『TAKARADZUKA MINERAL WATER (宝塚ミネラルウォーター) 』である。さらに1892年頃、のちの『NIWO(仁王水)』となる『TAKARADZUKA MEDICINAL WATER』を薬効水として発売した。「TANSAN」を商標登録し、ミネラルウォーター『TANSAN(タンサン)』を発売したのは1893年のことだった。炭酸は英語の「TANSAN」としても通じる登録商標だった。

日本に法人を設けたのは、紅葉谷から生瀬に工場を移設した1904年のことだった。社名は「ザ・クリフォード・ウヰルキンソン・タンサン・ミネラル・ウォーター有限会社」(以下、ウヰルキンソン社)。「ヰ」はかつて日本語のwiの音を表すカタカナで、「井」に通じる。ウィルキンソンはコンコンと湧き出る泉をイメージしたのだろうか。

ウヰルキンソン社は当時、本社が香港にあり、日本支店は神戸市に置かれた。そして現在の兵庫県西宮市塩瀬町生瀬に設立した「宝塚工場」で本格的に操業を開始した。なお、生瀬での創業当時は、現在のJR宝塚駅と生瀬駅の間に惣川駅という貨物扱いを主とした駅があり、そこから炭酸水を運んでいたとされる。

『ウヰルキンソン タンサン』は国内外に販路を広げていった。当時の時代背景を見ると、1860年代にラムネが誕生し、その後サイダーの国内製造が始まり、1880年代には三ツ矢サイダーのルーツとなる天然鉱泉「平野水」を開発するなど、日本における炭酸飲料の歴史が始まる黎明期であった。そこにウィルキンソンが躍り出たことになる。

日本に定住することを決意したウィルキンソンだったが、1923(大正12)年に他界する。跡を継いだのは京都市出身の女性との間に生まれた娘のミセス・プライスだった。宝塚から見れば、時代の先端を行く「町工場を継いだ女社長」だったかもしれない。

販売を一手に引き受けた“炭酸業界の雄”

ウヰルキンソン社が株式会社に鞍替えしたのは1937(昭和12)年のこと。クリフォード・ウヰルキンソン・タンサン鉱泉株式会社という社名だった。第二次大戦を乗り越え、以後、ウヰルキンソン社は日本・イギリス内外との積極的な提携を進めていった。アメリカのゼネラルフーズ社が原料の濃縮果汁を輸入するバヤリース・オレンヂ・ジャパンを日本に設立し、製造委託を受けたウヰルキンソン社が宝塚工場で生産を始めたのが1949年のこと。

1951年には、ウヰルキンソン社は日本市場への浸透をより図るため、日本企業と販売契約を結んだ。それが、宝塚の隣市川西の平野の山中に湧く炭酸水を活用し、『三ツ矢サイダー』に育てた朝日麦酒(現アサヒビールのほかアサヒ飲料などを傘下に持つアサヒグループホールディングス<2502>)だった。以後、『ウヰルキンソン・タンサン』『バヤリース』などの製造はウヰルキンソン社が、販売はアサヒビールが行った。

ウヰルキンソン社はジンジャーエール、レモネードなどの炭酸飲料の開発を進めた。そして1979年の東京サミット(第5回先進国首脳会議)で『ウヰルキンソン タンサン』が飲料水として採用されるまでになった。

なお、アサヒビールがウヰルキンソンの商標権を取得したのは1983年のこと。このとき、ウヰルキンソンタンサン宝塚工場は操業していたが、アサヒビールとしては開発・製造から販売まで一貫体制をつくったことになる。

工場跡に建つ「ウヰルキンソン記念館」

時代は平成に移り、1989(平成元)年、アサヒビールはロゴのカナ表記を「ウヰルキンソン」から「ウィルキンソン」に変更した。そして、ウィルキンソン宝塚工場は1990年に閉鎖された。1904年の創業から90年近い歴史を持つ老舗工場の閉鎖。炭酸のまち、宝塚の炭酸史の“現役時代”の幕は、いったん閉じることになった。工場建屋などは1995年に解体され、現在は跡地にマンションが建っている。

マンション裏手の山中には鉱泉水を引いていた鉱泉跡が残る。また、工場跡地の一角、マンションの隣にはウィルキンソンと宝塚工場を顕彰する「ウヰルキンソン記念館」が建つ。

記念館は「生瀬ふれあい広場くすのき」というコミュニティホールとして、地域住民のサークル活動の場にもなっている。記念館の管理も地元の方々が行っている。

記念館の2階、小さな部屋にはウィルキンソンとウヰルキンソン社の資料が展示されている。ウィルキンソンは、宝塚に外国人を誘致するため「タンサンホテル」という洋式高級ホテルを建築した。ウィルキンソンが「TANSAN」を商標登録した頃、1892(明治25)年の開業で、1915年(大正4年)にホテルの営業が終了まで多くの外国人が宝塚を訪れたという。なお、現在ウィルキンソンブランドの飲料は、主に兵庫県明石市のアサヒ飲料工場で生産されている。

武庫川べりを歩き、川をのぞくと炭酸がぷくぷくと湧き立っているところがある。小麦粉や砂糖などに温泉の炭酸泉水を加え、型に入れて焼き上げた『炭酸せんべい』は宝塚の“隠れた名産”だ。

武庫川を渡るS字の県道188号線宝来橋のたもとに「天然たんさん水 この下にあり」と刻まれた石柱がある。道路を挟んだ北側には、『ウィルキンソンタンサン』だけが並ぶ自動販売機。

日本でも、世界でもただ一つとされる自販機だ。まさに宝塚は炭酸発祥の地であり、ウィルキンソン宝塚工場は、そんな“炭酸の聖地”を聖地たらしめる存在だ。

「ウィルキンソン」歌劇のまちに息づく炭酸工場|産業遺産のM&A
天然炭酸水の碑と『ウィルキンソンタンサン』の自動販売機
宝来橋のたもとにある天然炭酸水の碑と、世界唯一とされる『ウィルキンソンタンサン』の自動販売機

文・菱田秀則(ライター)

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