
連続企業爆破事件の容疑で指名手配され、約50年ものあいだ偽名を使って逃亡生活を送った「桐島聡」の、学生時代から死の直前に本名を明かすまでを描いた『「桐島です」』が、7月4日(金)に全国公開される。数々の映画賞に輝いた『夜明けまでバス停で』の監督高橋伴明×脚本家梶原阿貴コンビが、毎熊克哉を主演にむかえ、実話を基にオリジナルシナリオで挑んだ作品。
『「桐島です」』
交番などにずいぶん長い間貼られ続けていた指名手配犯の写真をご記憶の方は多いと思う。やや強面の顔がならぶなかで、にこやかに笑いかけているような、長髪、黒縁めがねの男性、それが桐島聡だ。

1960年代後半、全世界的に学生運動の嵐が吹き荒れていた。東大安田講堂事件あたりから鎮静化したが、一部のセクトはより過激な道をめざした。よく知られているのは、あさま山荘事件やいくつかのハイジャック事件をおこした日本赤軍だが、1974年から75年にかけて、彼らとは別の過激派、東アジア反日武装戦線が旧財閥系企業や大手ゼネコン社屋などの爆破事件を相次いで起こし、社会を震撼させた。とくにその下部組織である「狼」というグループによる丸の内の三菱重工ビル爆破は、8名が死亡、380人が重軽傷を負う大惨事となった。
大学生だった桐島聡は「さそり」というグループに属し、1975年の銀座・韓国産業経済研究所ビル爆破事件に関与したとして、爆発物取締罰則違反の疑いで指名手配された。……ちなみに、この事件では、犠牲者はひとりも出ていない。

仲間が次々と逮捕されていくなか、桐島は逃亡の道を選ぶ。いや、ただがむしゃらに逃げてしまっただけかもしれない。組織とは連絡を絶ち、そこからなんと約50年間、市民生活のなかに溶け込み、潜伏を続け、2024年の1月に、突然、入院中の、神奈川県の病院で本名を告げ、“浮上”。

その桐島聡の生き方、謎多き逃亡生活に関心をよせたのは、映画界の重鎮ともいえる高橋伴明監督。桐島より5歳年上で、大学時代に学園闘争で検挙された経歴の持ち主だ。やや過激なピンク映画が注目され、『TATTOO〈刺青〉あり』などの、実話を基にした犯罪ドラマで名を成した。連合赤軍を描いた『光の雨』という作品もある。
脚本を共同で手掛けたのは、前作『夜明けまでバス停で』(2022年)でタッグを組み、キネマ旬報脚本賞を受賞した俳優・脚本家の梶原阿貴。本作を公開するにあたり、彼女の父であり舞台俳優だった梶原譲二が1971年の「新宿クリスマスツリー爆弾事件」に関与し、10年間逃亡の末、出頭した過去があることを『爆弾犯の娘』というノンフィクション本で明かしている。

桐島自身が逃亡中に残した記録や著書はほとんど存在しない。それだけに、綿密な取材をしたうえで、物語としてこのオリジナル脚本を書き上げた。
なぜ、桐島はテロリストになったのか?
50年近く、どういう暮らしをし、何を考えていたのか、
最後に、なぜ、「桐島です」と名乗り出たのか?
観る世代、立場によって、おそらく受け止め方、答えは違う。

高橋監督はインタビューで「桐島は主張があいまいだったからこそ50年逃げられたんじゃないかと思う……主張したいことがなかったから、人の波間に埋もれて生きた。桐島が何者でもない普通の人だったところに、僕は共感した」(「キネマ旬報」2025年8月号)と話している。

毎熊克哉は、桐島の50年を特殊メイクなしで見事に演じる。似ている、と思う。行きつけのライブバーで出会ったミュージシャンのキーナ役には北⾹那。高橋監督夫人で、本作のプロデューサーでもある高橋惠子は、なるほど、という役で登場する。

「目立たぬように、はしゃがぬように……」。キーナが店で歌った河島英五の曲『時代おくれ』に魅せられ、桐島は独学でギターを勉強して、弾き語りまでする。
ユーミンの『いちご白書をもう一度』が発表されたのが1975年。あの歌のなかで、就職が決まって髪を切ってきたときに「もう若くないさ」と君にいいわけしたね、というフレーズがでてくるけれど、まさにそれと同じ頃、大学生だった映画のなかの桐島は、つきあっていた彼女に社会運動のことを熱っぽく語り、「時代おくれね」と言い放たれ、ふられる。若者たちの「政治の季節」は終わろうとしていた。

効果的に使われる浅川マキの『こんな風に過ぎて行くのなら』、そして、実に印象的にながれる憂歌団・内田勘太郎のブルース・ギターも心に染みる。そんな風に生きるしかなかった、ある時代の青春への、挽歌のような映画。
文=坂口英明(ぴあ編集部)

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