
18歳のころ、「ヤングジャンプ月例MANGAグランプリ」にて、『サラリーマンの死』が準優秀賞を受賞し、22歳で『日々ロック』で連載デビューした漫画家・榎屋克優氏。中学校の卒業文集にも記した「漫画家になる」という夢を叶えるために、必死にもがいていた20歳のころの話を聞いた。
高校時代の放送部で「流行りのJ-POPを流せ」に対して流した音楽は…
――成人の日なので、「18歳~20歳くらいのころ」の話を聞きたいんですが、そこにいたるまでのお話からうかがえればと思います。まずは、子どものころのお話から教えてください。
榎屋克優(以下、同) 父が体育教師で母親が保健室の先生という、体育会系一家の中で育ちました。なんとなく、髪も伸ばしちゃいけない雰囲気がある感じで。
――失礼ながら、現在の榎屋先生とはかなり雰囲気が違いますね。
(笑)。ずっとスポーツ刈りだったので、初めて前髪ができたのも19歳とかそれくらいです。大学で一人暮らしをはじめて、ちょっと反動もあったかもしれません。いまだに親は、スポーツ刈りが一番似合うのにって訳のわからないことを言ってます(笑)。
――当時、熱中していたことはありますか?
父親が野球部の監督だったので「野球をやるもんだ」みたいな空気があって、僕も中学まではやっていました。うまくはなかったし、チームも弱かったし、熱中はしてないですけどね。父親が顧問をしているチームと練習試合をしたときは、26対0で負けました(笑)。
――お父さまから、熱血指導はなかったのでしょうか。
ありましたよ。リビングで素振りして、バッティングフォームをみられたり。嫌だなーと思いながらやってましたね(笑)。野球は最後まで好きになりませんでした。ボール怖いし、やること多いし、みたいな。
――中学で野球を辞めて、高校生では部活に入らず?
いえ、放送部に入りました。校内ラジオのDJみたいなことをしてて。
――どんな曲を流していたのでしょうか。
ブルーハーツとか奥田民生とか、ストーンズとか。僕は月曜日の担当だったんですが、その日は好きなロックばっかり流してました。
――ほかの学生からの評判はどうでした?
あんまりよくなかったですね(笑)。やっぱり、当時流行りのJ-POPを流せとかそんな声のほうが多くて。
中学の卒業文集では「高校生で漫画家になって、52歳で死ぬ」
――高校ではどんな勉強を?
高校は工業高校のデザイン系の学科だったので、課題の締切との戦いでした。そこで締切を守ることの大切を学んだかもしれません。
――どうしてデザインを学ぼうと思ったのでしょうか。
そもそも学校の勉強が苦手だったんですよ。左右を覚えるのも遅かったし、掛け算を覚えるのも遅かったし。あー勉強で評価されて成功するのは無理だなと。でも、描いた漫画はみんなに褒めてもらえるのでコレだなって。漫画家になることにベットすると小2のときに決めました。
――かなり早い決断ですね。デザイン学部ではどんなことを勉強するのでしょうか。
結構ハードでした。でっかい画板に、「あ」から「ん」までレタリングするとか。ゴシック体でひと通り終わると、次は明朝体、次はアルファベット、グラデーション、漢字…と続いていって。修行みたいなもんですね。もしかしたら、それが『日々ロック』に役立ってたかもしれないけど。
――その後、京都精華大学のマンガ学部に進学されるんですよね。
そうです。中学校の卒業文集に「高校生で漫画家になって、その作品が映画化して、52歳で死ぬ」って書いてたんですよ。でも、高校生時代に手塚賞に応募したら、かすりもしませんでした。あ、これは才能がないなって思って。もうちょっと親の金でなんとかしなくては…と(笑)。延命装置みたいな感じです。
――死ぬ年齢まで決めていたんですか(笑)。
ジョン・レノンが40歳で死んだので、そこから12年くらいは生きたいなと思って(笑)。映画化は3本するとも書いてましたね。あと、僕原作の映画がカンヌでパルムドール賞を獲るとか。いやーそれにしても他人任せな夢です(笑)。
トガりまくっていた大学時代…同級生の漫画に「つまらないね」
――とはいえ、若いころからかなり具体的なロードマップを作っていたんですね。そんな高い目標を持って、大学ではどんな生活をしていたのでしょうか。
みんなに嫌われてたと思います。
――どうしてですか⁉︎
トガりまくってたんですよ。同級生の漫画を読んで、「つまらないね」とはっきり言ったり(笑)。
――直接言っちゃうんですか(笑)。
もちろん。しかも、まっすぐ目をみて。
――それは嫌われそうですね(笑)。ちなみに、「そういうの」とはたとえばどんな曲を?
…当時ですよ? スガシカオとか…。流行りのJPOPとかは基本的に斜めに見てました。言い訳するわけじゃないですが、今はスガシカオさんはもちろん、ほかの流行りの曲のよさだってわかります(笑)。
――先生自身はどんな曲を聴いていたのでしょうか。
クロマニョンズとかストーンズとか、ロックが中心ですね。今でも、何か不安なことがあるとストーンズを聞いて自分を奮い立たせてます。
――心の支えだと。
そうですね。音楽つながりで言うと、実は大学では軽音サークルに入らされて、そこでバンドのボーカルもしてました。
――入らされて、ということは自分から入ったわけではない?
はい。出身の神奈川を出て大学のある京都で一人暮らしをはじめて、関西が怖かったんですよね。だからストーンズのグッズで全身を固めて学校に通っていました。Tシャツ、バッグ、帽子、帽子にはバッジもつけて。あとはハイロウズのリストバンドもしてました。
そんな全身武装をしていたらロック好きだってバレて、じゃあ組もうやと言われてズルズルと。全身ロックなのに頭はスポーツ刈りですからね。そのギャップもおもしろがってもらえたんだと思います。
――バンドと漫画の二刀流とはなかなか忙しいですね。
音楽にも時間を取られて、音楽と漫画とで、かける時間は半々くらいになりました。
18歳でヤングジャンプ月例賞受賞、賞金の使い道は
――『日々ロック』で描かれているバンドシーンには、当時の経験が活きているのでしょうか。
日々沼がスコップを持って舞台に立つシーンがあるんですけど、あれは実際にモデルがいます。原作に登場する「犬レイプ」というバンドも、実際にはやっていませんが、先輩が犬を連れたバンドをやりたいんだよねって言っていたアイデアをもらいました。
パワフルな先輩がたくさんいたんですよ。急に旅行くぞ!と言われて他県まで自転車で出かけて、ホームレスの方にスペースを借りて昼寝させてもらったり。ほかにもノーフューチャな人とたくさん出会ったので、漫画に没頭はできなかったけど結果的に役に立ったことは多いと思います。
――漫画の投稿も継続していたんですよね。
「ヤングジャンプ」の月例賞に出していました。あとは大学に入学する少し前ですが赤塚賞も。最終選考とかまで残って、雑誌に小さくカットが載ったのを覚えています。で、うすた京介先生とかからコメントをもらえたりして。
――ちなみに、厳しいご両親は漫画家を目指すこと反対はしなかったのでしょうか。
小学生時代からずーっと言っていたので、諦めてたんじゃないですかね。18歳のとき『サラリーマンの死』という作品で「ヤングジャンプ」の月例賞で準優秀賞をとって、母親に電話したら泣いて喜んでくれました。でも、次の年に『あいす』で準グランプリを取ったときは、「へー賞金いくら?」って(笑)。90万円の入金があると伝えたら、後日「50万円はいただきました」って連絡が来ました。学費に充ててくれたんですけどね。
『日々ロック』1話目を読む
取材・文/関口大起 写真/井上たろう