
ミュージシャンの岩瀬敬吾にとって20歳のころといえば、高校時代から共に活動していた岡平健治とイラストレーター・326と組んだユニット、19でメジャーデビューを果たした年。当時、どのような気持ちで音楽や人生に向き合っていたのだろうか。
世間知らずだった20歳。『紙ヒコーキ』が売れてホッとした
――岩瀬さんが20歳のころは、ユニットの19としてメジャーデビューをされたころですよね。そもそも3人で19を始めたきっかけは何だったのでしょうか。
岩瀬(以下同) 高校生のころ、(岡平)健治くんと一緒に「少年フレンド」というユニットを組んでいて。高校卒業後、僕が先に東京に出ていたんですけど、健治くんも半年ぐらい遅れて東京に来て、レコード会社の育成に所属していたんですね。ふたりでまた活動をする中で、326くんと出会ったんです。歳も近いから仲よくなって、勢いに近い形でユニットを組みました。
――1998年にデビューして、1999年の『あの紙ヒコーキ くもり空わって』で空前の大ブレイク…自分たちの曲が受け入れられていくことを、どう受け取っていましたか?
売れるのはわかっていたんですよ。自分の曲に自信があったので、世の中に広く聴いてもらえる機会をもらったんだから、必ず売れるという確信がありました。
ただ、ファーストシングルはそこまで売れなかったんですよね、当時の初動が1万枚かな…2枚目も最初はそのくらいだったのが、だんだんチャートが上がっていって。だから、ホッとしました。
でもやっぱり、世間知らずでしたね。18歳で東京に出てきて、社会のルールも知らない子どものままなのに、大人は笑顔で接してくれるので、僕たちはそれでも許されるんだと思って過ごした数年間でした。勘違いしていたと思いますね。

ちやほやされるのは不安でしかなかった
――特殊な20歳だったんですね。
それが普通だと思っちゃってましたね。地元の友達は大学生だったり働いていたりする中で、自分はテレビにも出て、目立つことをしているっていう優越感もあったと思います。でも、一方でそんな状況に対する違和感もあったし、ちやほやされるのも不安でしかなくて。考え方を修正しなきゃいけないなとは思っていました。
――その違和感や不安はどこから来ていたんでしょうか?
20歳のときにそういう世界に足を突っ込んで売れた僕が、その後も同じように売れ続けていたら、その感覚が自分のスタンダードになったのかもしれないけど、僕は、そういう変化に臆病だったので……でも当時、毎日、答えは違いましたね。
――岩瀬さんはテレビ番組などで、当時、契約の形式が変わったらいきなり大金が振り込まれたというお話もされていましたが、お金の使い方も変わりましたか?
あまり契約状況がよくなかったこともあって、そこまで大きな買い物はしていないですね。両親と自分用に車は買いました。ボルボ940という車を4年落ちで買ったんですが、今も乗っています。

19時代に唯一したという大きい買い物の車、今も現役で乗っている。岩瀬敬吾氏撮影
今の妻が高校のときから一緒なんですけど、しっかりした人なので、僕がお金を使い過ぎると、「なんで同じ服、2枚も買うの?」って、釘を刺してくれていました(笑)。

解散前に19をやめようと思ったことも
――2002年に19は解散しますが、その最大の理由は何だったのでしょうか。
いろいろな要因があるんですが、大きいのは、健治くんとうまくいかなくなってしまったことですかね。
高校時代からの連れで、お互いが見ている世界を大事にしてきたんですけど、僕が健治くんの変化を受け入れるキャパシティがなかったので、やめようか、という方向になりました。それに、実は僕、それより前に1回、19をやめようと思ったことがあったんですよ。
――それは岩瀬さんが19を抜ける、ということですか?
僕が抜けようと思いました。セカンドアルバム(2000年7月発売の『無限大』)が完成した直後ぐらいですね。今なら、僕以外の人が加入すれば、19は継続していけるんじゃないかと思っていたんです。
――なぜ、やめようと思ったんですか?
19が、自分の意思を超えて売れていってしまったというのもあるし、健治くんとの、音楽に対する感覚がブレ始めていたんですよね。それに、僕は音楽家としてとても未熟だったので、一度、人目に当たるところから離れて、もう1回ちゃんと勉強したいと、レーベルと事務所に伝えました。
イギリスに渡って、働きながら音楽を学びたいと思っていたんですけど、その話は流れてしまって。その後も「あのとき、イギリスに行ってたら……」という気持ちが残っていたので、解散のときもそれに似た感覚で、「じゃあやめよう」という方向にことを進めたんだと思います。

自由奔放な振る舞いで大人に怒られた。飛行機に乗り遅れることも
――今、振り返ると、20歳のときは、幸せだったなと思いますか?
デビューしたあの1年間ですよね……幸せでした。楽しかったですね。幸福なことに僕は、20歳のころから音楽をスタートできているので、この25年間の時系列に、全部、音楽が詰まっているんですよね。
あのとき何をしていたか?というのが、音楽を通じて思い出せるんです。
19のころは、自分のために曲を作ったら売れて。だんだん、知らなかった音楽の方向性を知って、それに合わせた曲の書き方をするようになっていったんですけど、それもいい経験でした。売れるために作品を書くというのは、おもしろいですね。
ただやっぱり、嫌な思いもたくさんしました。少年フレンドでデビューしていたらどうなっていたのか、そちらのほうにも興味がありますし。
でも、19でデビューすることを選んだ時点で腹をくくりましたし、その道での人生の開拓はおもしろかったですよ。
いろいろな大人に会うのもおもしろかったです。
当時は僕、よく遅刻してたんですよ。でも、偉そうに遅刻していたんじゃなくて、僕はもともと遅刻する人だったんです(笑)。高校生のときも遅刻ばっかりだったし。
――大人からすると、「調子に乗ってる」と受け取られちゃいそうですね(笑)。
間違いなくそう思われてました。(紙ヒコーキには乗れたけど)飛行機にはよく乗り遅れてましたね(笑)。

20歳のころは自分を欠陥のないものとして見せたかった
――20歳のころは、どういう動機で音楽を作っていたのでしょうか。
19やソロの初期、中期は、内向的でしたね。自分の心模様をどう言葉にするのかということに気持ちが向いていて。恥をかくのが嫌で、身なりも含めて、自分をなるべく欠陥のないものとして形作っていくことに、ずいぶん時間をかけていた気がします。
30代、40代とそのまま行ってしまう人もたくさんいると思うんですけど、それじゃダメだと、音楽が教えてくれたんですよね。
僕はメジャーで活動して、インディーズに移って、今は個人で活動していますけど、音楽としては縮小していっていると感じる人もいると思うんです。
でも、ツアーをまわっていろいろな街に行って、人に会ったり、よくしてくれる仲間も増える中で、それは間違ってると気が付いて。音楽という本質さえブレずに持って生きていれば、何も恥ずかしいことはないんですよね。

――20歳のころと今とで、音楽への向き合い方は変わりましたか?
若いころは、音楽のことも今ほど知らなくて。コードの作り方も頑固で、若さゆえの固執がありましたね。今は、曲がどんどん変わっていくことにおもしろみを感じるし、柔軟性が増したと思います。僕自身、あのころからアップデートできてると思えているので、それも幸せなことですね。
それに、僕のライブに来てくれる人たちって、どこか寂しい思いを持っていらっしゃる方が多くて。そういう人たちの心を満たせるような、ものづくりをしたいという気持ちが今はありますね。

取材・文/川辺美希 撮影/井上たろう