
入江悠監督の最新作『あんのこと』がミニシアターを中心にした上映ながらSNSや口コミで広がり、興行収入1億円を突破した。実在する女性をもとにした本作の大反響に、それでも入江監督は「まだ届ききっていない」と語る。
感動ポルノとの距離感
──昨日2度目の『あんのこと』を鑑賞してきました。公開から2週間経ちますが、ほぼ満席で、終わったあとに余韻を噛み締めて座ったままの人が多かったのが印象的でした。大反響を受けてどのように感じていますか?
入江悠監督(以下同) 正直、もっと怒られると思っていました。当事者の方や近い状況の方々に、“ふざけんな、実態はこんなんじゃない”みたいな批判を受けるだろうと。だけど、そういう方にはまだ届ききっていなくて。それで戸田さんの書かれたレビューを読んで、この映画がもともと持っている暴力性みたいなものを的確に指摘してくださっていたことに感動したんですよね。
──実際の事件や社会問題について扱った映画で、感動ポルノ的なアプローチを取っているものとか、もっと怒られなきゃいけない作品がやまほどあるとは思うんですよ。
脚本を書くとき、なにが感動ポルノでなにがそうじゃないのかを見極めたいと思っていろいろ本を読んだりしたのですがわからなくて。戸田さんの中で基準ってありますか。
──作品が目指しているものが、観客に向いているか、撮られる対象に向いているか、の違いですかね。
すごく納得します。今自分の中でつながったのが、撮影前に水俣病問題のドキュメンタリーをたくさん観ていたことです。いいなと思うドキュメンタリーって、その問題によって苦しんでいる姿だけではなくて、痴話喧嘩とかくだらない冗談を言い合う姿とか、被写体が生きてること自体をちゃんと撮ってるんですよね。カメラの意識が観客ではなく被写体そのものに向かってるってことなんだなと。
──まず生きている人がそこにいて、それを見つめていくと、抱えている、あるいは抱えさせられている問題のほうが見えてくる、という形が誠実だと思うんですよね。『あんのこと』はユーモアのあるさりげない会話をいれるところなど、“いいドキュメンタリー”のあり方を踏まえた、フィクションとして成立していました。
杏の置かれた環境を僕はあんまり特殊だと思っていないところがあって。親の支配下において苦しんでいることとか、なにかに対する依存症っていうのは世の中にあふれているものだから、そこを強調するよりも、“どこにでもいる普通の人が孤立していった”っていうこと自体が、自分にとってすごく向き合いたいことでした。
「この子のことを描く以上は自分は一生背負うことになる」
──彼女が希望を見出しながらも、ふたたび孤立していくきっかけとして、薬物からの更生を手伝ってくれた、佐藤二朗さん演じる刑事・多々羅の性加害事件の告発がありました。社会構造上、困っている女性を余裕のある男性が助ける、という構図は多くありますが、その男性が誰かの加害者たりえていることが描かれているのはとても大事だったなと。
多々羅は一番わかると思いながら描いたキャラクターです。脚本を書いている当時から、監督やメディア関係者とかの性加害問題ってすごくたくさん耳に入っていて。
取材した記者の方に聞くと、やっぱりちょっとおもしろい方だったと聞いて。そういうおもしろさっていうのが、結果的に起こってしまった性加害と、よく考えると繋がるところもあるんじゃないかとか考えました。
ただ性欲の強さっていうよりはそれが承認欲求と絡み合ってるんじゃないかと思っています。自分が作ったグループでみんなから頼られることによって生きがいを得ていて承認欲求を満たすみたいな。それが性欲と結びついているからこそ、どうジャッジしていいかわからない。
──承認欲求や性欲を満たすという目的があることによってその人が頑張れたり、魅力がより発揮されたりすることってありますよね。同時に本作を観ると、 “承認欲求なしでの人助け”はできるのだろうか、と考えてしまいます。
僕はそもそも人を助けるってことがよくわからないんですよ。ドライな人間なのかもしれませんが、自分も人に悩みを共有しないし、SOSを出さない。例えばお金貸してくれとか、具体的に助け方を提示してもらえれば助けられるんですが、人の漠然とした悩みを掘り下げていこうとは思わないです。
コロナ禍で女性の友人を亡くしたのですが、なにかできたか、助けられたか、っていうのはいまだにわからないです。
杏に関しては、モデルだった子は亡くなっていて、僕のことを怒ったりもできないけれど、この子のことを描く以上は自分は一生背負うことになるんだなと。実は映画作りで、登場人物に対してそう思ったのは初めてでした。
正しく生きることの困難と、背骨のような存在
──やっぱり亡くなった人を描くってすごく怖いことだと思うんですが、杏ちゃんに関しては、モデルになった彼女が生きていたっていう事実とか、それに影響を受けた入江監督自身の感覚が作品になって残っていくことの尊さを強く感じて。それが、すごく善の力を感じるものとして、承認欲求じゃないところから来ている気がしました。
この話って、究極死後の世界ってどうなってるんだろう? みたいなところに繋がるんですが、僕は死後は虚無だと思っていたし、いつ死んでもいいみたいな気持ちがベースにあったんですよ。
だけどこの映画を作ってるとき、空の上でこの杏のモデルになった子が見ててくれないと困るな、と思って。今僕がこの映画について怒られようが褒められようが、それは生きてる人同士の世界じゃないですか。この作品が別の杏みたいな状況の人のためになったとしても、それは死んでしまった彼女にとってはどうでもいいことで。
そうなると、空の向こうで見ている彼女という存在を勝手に作らないとやっていられなかったですね。上とか見ながら、これでいいですか? って問い続けるみたいな、そういう感じになりましたね。
──私はこの映画を拝見して、「入江監督、これから背筋を伸ばして生きていくしかなくなったな」と思いました。
入江監督はおそらく、永久にそれを持ってしまったんだと思いますし、これから大変だなと思います(笑)。
今までそういう存在がいなかったんですよ。僕は44歳なのですが、同世代の男性が凶悪な犯罪を犯すことがすごく増えているんです。彼らは犯罪者として罰せられてますが、彼らがどうやって追い詰められていったのかっていうのが、同じ時代を生きていた者としてすごくよくわかる。
だから今話していたような、「その人に見られているから、正しく生きなきゃいけない」みたいな、精神の背骨になるようなものを持つことって、めちゃくちゃ重要なことだと思うんですよね。
──気力や体力が衰えていって、未来があるっていう漠然とした希望すら抱けなくなっていく中で、それでもがんばって素敵でいる理由がなくなっちゃうんですかね。
この前、ちょっと硬い駄菓子の袋を歯で開けようとしたら歯が折れたんですよ。20代のとき貧乏で治療せず放置して。そうやって自分を大事にしてなかったツケがちゃんと回ってきました。僕にはたまたま映画があってそれにすがって生きてこれていますが、本当に自分を律して生きていくのって難しいこともあるんだと思います。
杏のモデルになった女性が残した日記
──本作では、杏ちゃんの背骨になるようなものとして、日記を書くことがあるのではないかと思います。
僕の友達にさえない感じの、ぜんぜんモテないだろうな、みたいな俳優がいて。そいつが『あんのこと』見てくれて、日記を書いたんですよ。彼は“日記を書いてるときだけ抱きしめられてる感じがするんだ”と言っていて。それって現実に向き合いつつも、創作というものの核にも繋がるじゃないですか。そういう自分で自分を抱きしめられるような作業をいろんな人ができたらいいのにと思います。
──まさに『あんのこと』のラストはそういうものと繋がっていると思いました。杏ちゃんが日記を燃やしたシーンから深い絶望が伝わるし、でも1枚破って、火を消して、っていう動作からそれでも生きていたいと思っていたことも伝わる。暗くも明るくもなく、彼女になって世界を見ているような、本当に見事なシーンでした。
杏のもとになった女性を取材した中で、記者の方が撮った何枚かの写真の存在を知りました。もちろん守秘義務があるので彼女の顔は見せてもらえないんですけど、彼女が日記を書く手元の写真があったんです。
それで筆跡とか字とかを見ていると、すごくなんか、肉感的というか、存在が立ち上がってくるんです。
──そういう、自分の手でなにかを残すっていうことを誰も嘲笑わない世界であってほしいなと思います。
それはそうですね。うん。
取材・文/戸田真琴 写真/濱田紘輔
『あんのこと』
新宿武蔵野館、丸の内TOEI、池袋シネマ・ロサほかにて全国公開中
配給:キノフィルムズ
Ⓒ2023『あんのこと』製作委員会