
1990~2000年代に役者として『人間失格』『ちゅらさん』など多くのドラマに出演し、次代を担う若手俳優として期待されていた小橋賢児氏。しかし、27歳で突然役者を辞め、アメリカなどを放浪したのちイベントプロデューサーに転身する。
そんな小橋氏は、今年4月より開催される大阪・関西万博の催事企画プロデューサーにも就任している。俳優として将来を嘱望されたはずがなぜ若くして、第二の人生を選んだのだろうか?〈前後編の前編〉
「本当の自分じゃないまま生きていくのかと思うと怖くなった」
もともと裕福でない家庭で育ったという小橋氏は、小さい頃から人一倍独立心が強かったという。
「畳も床が抜けて、台所にはネズミが走っている、超がつくぐらい貧乏な家だったので、幼い頃から自分がやりたいと思ったことは自分で行動しなきゃいけないという“チャレンジ精神”がありました。
最初は観覧希望と勘違いで好きなテレビ番組の応募したのがきっかけで芸能界入りをし、その後はひたすら役者のオーディションの日々でした。なかなか泣かず飛ばずだったのですが、あるときをきっかけに役者としてたくさんお仕事をいただくことになりました。
ただ、いざ役者になってみると、人から評価はされるんですが、『役者だからこうしなきゃいけない』とか『これは言っちゃいけない』とか、自分の心を無視して生きるようになったのが、辛くなってきたんですね。なにかにワクワクしても、それを見ないようにしているうちに、だんだん自分がわからなくなってきた」(小橋賢児氏、以下同)
「将来を見据えたときに、このまま今のポジションにしがみついていたら、それなりにお金や地位は得られるだろうけど、本当の自分じゃないまま生きていくのかと思うと怖くなりました。知らない自分に出会うため、想像がつかない場所に行きたかった」
そうして26歳のときにネパールへ初めて一人旅を決行する。そこで出会った青年の「いまを生きるために働く姿」と、キャリアに思い悩む自身との差に愕然とした小橋氏は、27歳のときに休業を宣言。その後、アメリカの各地を旅した。
「休業は言い訳で、『先のことまで考えられなかったから逃げた』っていうのが正直なところですね。英語で日常会話ぐらい話せるようにならなきゃと思っていたからアメリカに行っただけで、なにをしようとか、何者かになろうかとまでは考えてなかった」
帰国後に、日本で仕事を始めようとしても、「上手くいきそうでいかない、仕事を取れそうで取れない」状態が続いた。
「アメリカや世界中をまわって、また自分の可能性を信じることができました。
今思えば、まだプライドがガチガチに高かったんでしょうね。お金を稼ぐだけなら、どんな仕事でもできたんでしょうけど、そこまではできなかった。なにかをクリエイションして稼ぎたいっていう気持ちは漠然とあったけど、この会社に入りたいとか、これを絶対やりたいとかまではなかった。プライドが邪魔して、いずれできるはずという間違った妄想の中で生きていたんだと思います」
初のイベントプロデュースは誕生日会?
そうこうしているうちに貯金も底をつき、当時の彼女や仕事相手との揉め事も増えていき、実家に戻らざるをえなかったという。
「負のスパイラルがどんどん広がっていって、結局実家に戻ったんですけど、なにもする気がおきず、ご飯とトイレのときだけ起き上がるっていう生活で。完全に鬱でした。それが半年ぐらい続いた。乗り物に乗っていると「このままぶつかったらいいな」って考えたぐらい、常に「死にたい」って思っていた。
体の不調もあったので、病院で受診をしたら「肝機能障害」って診断されたんです。僕はお酒を飲まないから『なんででしょう?』って聞いたら、『感情と肝臓は繋がっている、なにか思い悩んでることはない?』って聞かれました。思い悩んでいることしかなかったですよ(笑)」
心の病から立ち直るきっかけを与えてくれたのは、旧知のトレーナーだった。
「昔からサーフィンをやっていたことを知ってて、その人に海とかプールに行ったほうがいいよって言われて、海の近くに4畳半の安い部屋を探してくれたんです。それで、ライフセービングのトレーニングとか、トレイルランニングとか、とにかく自然の中で体を鍛えていたら、徐々に心身ともによくなっていきました。
ある日、その人に『なんでもいいから、目標を作ってください』って言われたんですね。で、なにをやろうかと考えたときに、もうすぐ30歳だったので、日ごろお世話になった人を集めた誕生日会をやりたいって思いつきました」
そこで、知人がお台場のプールを貸し切るイベントをしていたので、その人になにもイベントのことを知らせずに会場を借りることしたんです。すると、とんでもない額の見積もりがきたという。
「これはやばい、お金を払ってでもきてくれるイベントにしなきゃ、と思って、とにかくいろんな人に連絡しまくりました。その合間には、合羽橋に装飾品を買いに行ったりもしましたね。結果、来場者は250人くらいで、なんとか赤字にはなりませんでした」
その誕生日イベントをきっかけに、仲間もでき、培ったノウハウでいろいろなイベントのプロデュースを積み上げていく。ファッションブランドなど企業からのオファーも増えていく中、それが「ULTRA JAPAN」に繋がっていった。
#2に続く
取材・文/高田秀之 写真/本人提供