
プーチン大統領とはいかなる人物か。冷戦時代に英国M16がKGBに送り込み、二重スパイとして活動したゴルフジエスキー氏によると、彼ほどKGB(ソ連国家保安委員会)の精神を宿した人物はいないという。
書籍『プーチンに勝った主婦 マリーナ・リトビネンコの戦いの記録』より一部を抜粋・再構成し解説する。
アレクサンドル・リトビネンコ氏=サーシャ KGBの元職員、英国に亡命しロシアに対する反体制活動家となったが、2006年英国でロシア政府によって毒殺された
マリーナ・リトビネンコ氏 アレクサンドルの妻 夫がロシア政府に殺されたことを裁判で証明した
オレグ・ゴルジエフスキー氏 元KGB職員、民主主義のためにMI6(英国の秘密情報部)で活動した伝説的なスパイ
私(著者の小倉氏)はマリーナ氏や周辺への取材を通じて、ロシア政府による暗殺の実態を明らかにしていく
KGBの申し子が政権をとった
ゴルジエフスキーはリトビネンコから仕事について相談を受けた。
「彼(アレクサンドル・リトビネンコ氏)はMI6(英国の秘密情報部)のために働くようになっていた。その関係で将来の年金について私に聞きたかったようだ。イタリアのミトロヒン(ワシリー・ミトロヒン 元KGB職員だが引退後西側諸国のために活動した人物)委員会の仕事をやっていたのはわかっていました。
それにスペインの秘密情報機関とも仕事をしていた。彼はそうした仕事を頼まれると、ここにやってきた。友人は多くても、インテリジェンスについて語れる者はほかにいなかった。あの世界にいた者にしかわからない事柄があるからね」
リトビネンコが殺害される4カ月前、ロシアは反体制派の国外での活動を取り締まるために法改正をしている。ゴルジエフスキーは元ロシア政治犯のブコウスキーと一緒に、これを批判して英紙タイムズに寄稿した。この法律は暗殺と関係しているのだろうか。
「関係は明らかです。あの法律は暗殺宣言です。
プーチンがKGBに入ったのは1975年である。ゴルジエフスキーがMI6に情報を流すようになった年だ。
「私はKGBの対外情報部で、彼(プーチン)は主に国内情報部でした。あの組織は巨大で、別の部署にいると接点がありません。だから当時は知りようがなかった。ただ、彼がFSB(ロシア連邦保安局)長官になって以来、観察しています。恐ろしい人間です。彼ほどその行動にKGBの精神を宿している者は珍しい。特に国の指導者としては希有だ」
「KGBの精神?」
「一言でいうと殺人の正当化です。
ロシア政府やKGBについて話し始めると、攻撃的な言葉が次々と口を突いて出る。
プーチンはKGB出身者で初の指導者
「自分たちの権限を守るために、連中は外に対して攻撃的です。外国だけでなく国内でも政府に反抗する者は攻撃対象になる。ウクライナ領のクリミアに侵攻したロシアが何をやっているか知っているでしょう。独立国家を戦車と対空ロケットで攻撃する。時代錯誤もはなはだしい」
ソ連・ロシアの現代史にあって、プーチンは特異な存在なのだろうか。
「これまでの指導者とは明らかに違う。ブレジネフ(18年間に渡ってソ連の最高指導者を務めたレオネード・ブレジネフ)は平凡な人間で、ゴルバチョフ(ソ連最後の最高指導者、ミハイル・ゴルバチョフ)は無学だった。
突然、ドイツ語が出てきた。
プーチンは通訳ができるほどドイツ語が流暢だ。その人物を表現するためか、ゴルジエフスキーもドイツ語を使った。スパイになるためゴルジエフスキーは多言語を学び、ドイツ語と英語のほかスウェーデン、デンマーク、ノルウェーの言葉も自由に操る。
「プーチンだけがアプショイリッヒなんですか」
「歴代指導者と同じように考えると間違います。秘密情報機関の申し子がリーダーになった。これはロシア史上初めてです」
ゴルジエフスキーは80年代後半からのソ連・ロシアの指導者について解説した。ゴルバチョフはモスクワ大学で法律、エリツィンはウラル工科大学で建築、そしてプーチンはレニングラード大学(現サンクトペテルブルク大学)で法律を学んだ。三者はみんな大学教育を受けた点で共通している。
「ただ、ゴルバチョフとエリツィン(ロシアの初代大統領、ボリス・エリツィン)が卒業後に共産党でキャリアを積んだのに対し、プーチンはKGBに入っている。彼は若いころからKGBにあこがれていた。
「ユーリ・アンドロポフはKGB議長からソ連共産党書記長になっている」
「私がKGBにいたころの上司です。ユーリは共産党でキャリアを積み、その後でKGBのトップに就いた。諜報の実務を知っているわけではない。KGBではなく党の人間です。一方、プーチンは党で出世したわけではない。KGB出身者で初の指導者です」
「だから外に対して攻撃的になると?」
「KGBにいると、外の者が信じられなくなる。まずは疑ってかかる。入ってすぐに、そう教育される。だからプーチンは、KGBや治安機関の出身者を政権に入れている。
確かに、ロシアの社会学者のオルガ・クリシュタノフスカヤは、プーチンが政権を握って以来、政府の要職にKGB出身者と軍人が多数就いているとの調査結果を2003年に発表している。しかし、プーチンの後任として一時、大統領になったメドベージェフはKGBに所属していない。
「彼はレニングラード(現サンクトペテルブルク)出身で大学もプーチンの後輩です」
この作戦を決定できるのはプーチンだけ
リトビネンコの体調悪化(放射性物質ポロニウムを摂取させられた)を知ったとき、すぐにロシア政府の関与を確信したという。
「ウラジミール=ブコウスキー(ロシア生まれの人権活動家、同じくマリーナを支援している)からの連絡だったかな。KGBにやられたと思いました。彼は亡命後、何度もKGBから命を狙われ、それ以外の組織や個人には動機がなかった。ロシアは法律を改正して暗殺環境を整えていたからね」
KGBは解体されているのだが、彼もFSBと呼ばない。ブコウスキーから「放射線被曝の症状が出ている」と聞き、「KGB」がやったとさらに確信を深めた。
「毒物で暗殺するのは彼らの伝統的な手口です。モスクワ郊外では毒薬も製造していた。
暗殺動機についてこう解説する。
「まず、サーシャ(アレクサンドル・リトビネンコ氏)は記者会見で、KGBからベレゾフスキー(英国に住んでいたロシア人実業家、最も強硬な反プーチン勢力の一人でもあった、ボリス・ベレゾフスキー)暗殺を命じられたと発表した。KGB内部情報の暴露です。情報を少しもらすだけで大問題になる組織です。会見は裏切りです。あの組織は裏切りを許しません。以前なら死刑判決を受けてもおかしくなかった」
ゴルジエフスキーが裏切りと「死刑判決」を結びつけるのには背景があった。彼自身、英国に亡命後、ソ連時代に死刑判決を受けている。欧州ではベラルーシをのぞいてすべての国が死刑を廃止している。ゴルジエフスキーはよく「私は欧州では珍しい死刑確定囚だよ」と冗談を言う。
「しかも、サーシャは亡命後、プーチン政権を批判する本を書いた。そして、プーチンと敵対するベレゾフスキーを擁護した。さっきも言いましたが、KGBは簡単に人の命を奪う。彼らからすれば、サーシャの暗殺は必然だった」
イタリア人のスカラメラが事件当日、リトビネンコに暗殺対象者リストを渡した。リストを作ったとされるロシアの退役軍人らのグループ「名誉と尊厳」が暗殺に関与した可能性はどうだろうか。
「どんな組織なのかよくわからないが、国家以外があれほど高度な暗殺を実行できるとは思いません。ポロニウムを生成できるのは限られた原子炉です。それを手に入れるには、非常に高いレベルの承認が必要です」
「プーチンが指示したんでしょうか」
「英国のような重要な国の領土で、勝手に暗殺を実行するような勇気ある者はいない。最高権力者が許可したとしか考えられません。KGBのやり方を知っている者なら誰しも、そう考える。サーシャは死の直前、プーチンを名指しで批判した。彼もあの組織にいたから、わかったんでしょう。この作戦を決定できるのはプーチンだけだと」
文明が非文明に勝利した
英国で暗殺を実行する場合、ロシア政府は慎重の上にも慎重を重ねて検討するはずだという。なぜなら、英国は米国や欧州諸国との関係が良好で、欧米はその外交方針に追従する可能性が高い。
英国を敵に回すと、欧米との関係悪化につながる。また、英国は国連安全保障理事会の常任理事国で、国際社会での影響力が大きい。
さらに捜査機関や秘密情報機関、研究所の技術・技能レベルが高いため、暗殺の背景を暴かれる可能性もある。世界中の反体制活動家が英国に集まるのは、政治の安定性に加え、そうした環境に信頼を置いているためだ。その分、暗殺を計画する者も慎重になると、この元スパイは言う。
リトビネンコが殺された場合、一番に疑われるのはロシア政府である。それなのに、プーチンは暗殺を許可するのだろうか。国際的な批判が自らに向く事態も予想できる。
「ロシアの失敗は英国の能力を読み違えた点です。ポロニウムを正確に追跡できるのは当時、世界中で米国と英国の2カ国でした。ロシアはそれを知らなかった可能性が高い」
プーチンは露見するはずがないと考えたのだろうか。
「特定は不可能だと報告されていた可能性がある。完璧に暗殺が実行できると思い、承認した。しかし、最終的に英国の科学者はポロニウムを見つけ、警察はその痕跡を徹底して洗い出した。ある場所では、ごく微量の被曝痕まで見つけています。見事な捜査だった。英国は普段から核テロに備えていた。文明が非文明に勝利したんです」
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プーチンに勝った主婦 マリーナ・リトビネンコの闘いの記録
小倉孝保
夫アレクサンドル・リトビネンコは放射性物質によってプーチンに暗殺されたのか?
その真相を明らかにするため、妻マリーナは立ち上がった。
この動きを妨害する英国、ロシアという大国の壁を乗り越え、主婦がプーチンに挑み勝利するまでの過程を、マリーナと親交がある著者が克明に描き出す。
同時に、ウクライナ侵攻に踏み切ったプーチンの特殊な思考回路や性格、そのロシアとの外交に失敗した国際政治の舞台裏、さらに国家に戦いを挑んだ個人の姿と夫婦の愛を描く、構想12年の大作ノンフィクション!