スーパーボウル史上、最高のパフォーマンスをしたホイットニー・ヒューストン…大胆なアレンジで暗雲漂った「国歌斉唱のウラ側」
スーパーボウル史上、最高のパフォーマンスをしたホイットニー・ヒューストン…大胆なアレンジで暗雲漂った「国歌斉唱のウラ側」

2012年2月11日。48歳という若さで悲劇的な死を遂げてしまったホイットニー・ヒューストン。

『I Will Always Love You(邦題:オールウェイズ・ラヴ・ユー)』など、数々の名曲を歌ってきた彼女の今なお語り継がれる逸話を紹介する。

ホイットニーの歴代最高のパフォーマンス

アメリカで最も人気のあるスポーツといわれるアメリカン・フットボール。その優勝決定戦、スーパーボウルはアメリカの年間最高視聴率を記録するほどに注目され、まさに国民的イベントとなっている。

勝敗の行方はもちろんだが、試合だけでなくハーフタイムに行われるショーも見どころとなっており、中でも1993年にマイケル・ジャクソンが披露したパフォーマンスは、歴史的な瞬間として今も語り継がれている。

アーティストが登場するのはハーフタイムだけではない。

試合前に歌われる国歌「星条旗」もまたパフォーマンスを披露する場となっており、これまでアーティストごとに多種多様なアレンジが試みられてきた。

その中で歴代最高のパフォーマンスはどれか、というのは様々なメディアによって発表されてきたが、2位までは各紙によって順位が変わったりするものの、1位には満場一致で1991年のホイットニー・ヒューストンが選ばれている。

プロのシンガーたちの中にあっても、頭一つ抜きん出た歌唱力が存分に発揮されたこのパフォーマンスが、1位に選ばれることに異を唱える人はいないだろう。

しかし当時に時間を戻すと、本番前に関係者たちが抱いていたのは、期待ではなく不安だったというから驚きだ。

7万人以上の観衆が息を呑んだ

ホイットニー・ヒューストンはスーパーボウルで国歌斉唱してほしいというオファーが来たとき、すぐに音のイメージが湧いたという。

どれだけの砲弾が飛んでこようと、星条旗は折れることなく翻っているというこの歌に、幼い頃から教会で歌ってきたゴスペルのエッセンスを取り込みたいと感じたのだ。

長年にわたって彼女の音楽をサポートしてきたディレクターのリッキー・マイナーは、3拍子のワルツである「星条旗」を4拍子にしようと提案した。そうすればたっぷりと息を吸う時間が得られて、よりソウルフルな歌に仕上がると考えたのだ。

そして本番直前となった1991年1月、オーケストラによるアレンジも完成し、実際にスタジオで歌ってみて、ホイットニーらはその仕上がりに確かな手応えを感じる。

ところが、その音を聞いたナショナル・フットボール・リーグ(NFL)の幹部たちは難色を示した。戦時中にこのような派手なアレンジは、不謹慎ではないかと考えたのである。

1991年1月、それはアメリカを中心とする多国籍軍がイラクへの爆撃を開始。つまり、湾岸戦争が始まったばかりだった。

懸念を抱く理由はもうひとつあった。前年のスーパーボウルにおける国歌斉唱で、かつてないほどの大ブーイングが巻き起こってしまったのだ。

そうした背景もあって、NFL側はアレンジをもっと質素なものにするよう要望する。

もっとも、その要望はホイットニー側に伝わる前に、スーパーボウルのエンターテインメントを手がけるプロデューサーによって却下されるのだった。

そして本番当日となった1月27日。フロリダ州のタンパ・スタジアムには7万人以上の観衆が集まっていた。

その大観衆を前にNFLはおろか、ホイットニーとともにアレンジを作り上げて自信を持っていたリッキーでさえも、もしブーイングが起きたら、という不安に駆られた。

そんな多くの人たちの脳裏に去年のブーイングがよぎる中、ホイットニーは歌い始めたのである。

その後、彼女のこの歌声が収められたシングルはチャートを駆け上がっていった。

20万人以上もの動員した南アフリカでのコンサート

ホイットニー伝説をもう一つ紹介しよう。

1948年から始まった、南アフリカの悪しき差別隔離政策、アパルトヘイト。

こうした人種差別は南アフリカに限らず、アメリカをはじめ他の先進国でも見られたが、時代の流れとともに反発する声が大きくなると、各国で少しずつ改善されていくようになった。

しかし、南アフリカでは一向に差別がなくなることはなく、世界中から非難されるようになる。

そうした流れの中で音楽的なボイコット、要はアパルトヘイトを廃止しない限り南アフリカでコンサートをしない、という動きが音楽業界でも広がっていった。

1984年にはクイーンが、イギリスのミュージシャン組合から南アフリカでの公演を禁止されていたにも関わらず、コンサートを実現させているが、その結果として彼らは国連のブラックリストに載るという憂き目にあっている。

そんなアパルトヘイトが、ネルソン・マンデラが大統領になったことによって廃止されたのは1994年のことだ。これによってようやく世界中のミュージシャンたちが南アフリカに行き、堂々とコンサートをすることが出来るようになった。

そんな中、真っ先に南アフリカでのコンサートを実現させたのは、ホイットニー・ヒューストンだった。マンデラから直接のオファーがホイットニーに届いたのだ。

1963年にアメリカのニュージャージー州で生まれたホイットニーは、プロのシンガーだった母親による厳しいレッスンにより、幼少期から類まれな歌唱力を身に着けていた。

1985年にデビューを果たすと、7曲連続でシングルチャート1位を獲得し、ビートルズが保持していた6曲連続という記録を更新する快挙を成し遂げる。

ホイットニーのキャリアが頂点に達したのは1992年。この年に公開された主演映画『ボディガード』とともに、主題歌の『オールウェイズ・ラヴ・ユー』が世界的な大ヒット。グラミー賞をはじめとして様々な賞を総なめにし、ホイットニーはこの年に最も成功したアーティストとなった。

そんな世界的な人気シンガーであるホイットニーとマンデラの間には、ひとつの接点があった。

1988年の6月にロンドンのウェンブリー・スタジアムで開催され、当時はまだ投獄されていたマンデラの釈放を求めるコンサート「フリー・マンデラ」に出演しているのだ。

このコンサートにはホイットニーのほか、エリック・クラプトンやジョージ・マイケル、スティーヴィー・ワンダー、スティングなどが参加している。ホイットニーの実力や人気はもちろん、こうした接点もあってのオファーだったのだろう。

南アフリカでのコンサートは、1994年11月8日、12日、19日と3回にわたって開催され、20万人以上もの動員を記録した。

それまで海外からミュージシャンがやって来てコンサートをすることなど、ほとんどなかった南アフリカの国民にとって、ホイットニーのコンサートは、国が新しい時代を迎えたことを改めて実感させるものとなった。

文/TAP the POP サムネイル/『The Star Spangled Banner』(1991年発売、Arista)

*参考/『Whitney 1963-2012』(LIFE)

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