うつとアルコール依存症で失踪しホームレス生活へ。伝説の漫画家・吾妻ひでおの「失踪日記」が賞を総なめしたまさかの背景
うつとアルコール依存症で失踪しホームレス生活へ。伝説の漫画家・吾妻ひでおの「失踪日記」が賞を総なめしたまさかの背景

SFや美少女漫画を多数発表するも、睡眠不足とアルコール依存症によって精神が不安定になり、ついには失踪してしまった吾妻ひでお。一時はホームレスになるなど過酷な生活を余儀なくされたが、その頃の経験をまとめた漫画『失踪日記』が大きな話題に。

そこから見えてきた、吾妻の真の魅力とは……。

 

『漫画のカリスマ』より一部抜粋、再編集してお届けする。〈全3回の3回目〉

アル中、そして失踪…

80年代から90年代にかけて、好きなSFや美少女漫画を描けるようになった吾妻だが、それもネタ切れとなってくると、執筆は苦しいものとなった。長年の睡眠不足とアルコール依存症から精神的に不安定になり、1989年11月に失踪事件を起こした。

この時、吾妻は鬱症状が重くなって自殺を試みたが失敗。それ以降はホームレス生活をし、初めは食料調達に困ったものの、やがて大量の食品廃棄が出るごみ箱を見つけ、失踪前より太ったという。深夜にシケモク拾いをしている時に警官に不審がられ、90年2月に保護された。

『失踪日記』(2005)によると、その際、警察署に吾妻のファンがいて〈先生ほどの人がなぜこんな……〉と困惑されつつも、慌てて色紙を買いに行った警官に、サインを求められたという。

ふつう失踪した作家や漫画家は信用を失い、見つかったとしても以降は沈黙するものだが、吾妻には仕事があった。なんと妻や娘も、彼を怒りはしたが見捨てはしなかった。

失踪時に原稿を落とした『ミステリーレディース』の担当編集者・佐川俊彦は、かつて中島梓(栗本薫)と組んで、女性のためのポルノをイメージして少年愛雑誌『JUNE』(創刊時の誌名は『JUN』)を出した人物。吾妻ファンでもあり、吾妻の失踪後も家族と連絡を取っていて、戻った際には知らせを受け、吾妻のささやかな展覧会や直販会を開いた。

こうして帰宅後、細々と仕事を再開したものの、1992年4月に再び失踪。

そして今度は失踪中、街でスカウトされて、東京ガスの孫請け会社で働くことになったのだが、その延長で社内報に4コマ漫画を投稿して幾度も採用され、ほぼ連載状態となった。そこでの筆名は「東英夫」で、そのまま吾妻ひでおである。しかも自身のイラストと共に〈雑誌や広告の挿し絵など20年近くも描いてきたという〉との紹介文があり、何とも人を喰っている。

その後、93年3月に、酔っぱらって自転車に乗っていたところを警官に職務質問され、警察署に連れていかれて失踪がバレ、家族に連絡された。

この時は帰還後すぐに『モノ・マガジン』に『でんじゃらすももちゃん』の連載を開始する一方、ガス会社の都合もあり配管工の仕事を半年ほど続けている。うーん。93年10月には東京・保谷の「がれえじ・さるうと」で「不条理美少女イラスト展」が開催され、一般のファンだけでなく、安彦良和はじめ吾妻の友人やファンの漫画家、小説家、編集者も訪れた。

だが復帰すると、生活が安定する一方、かえって飲酒が増え、97年の暮れには手が大きく震えるようになり、98年春には重度のアルコール依存症と診断された。しかし自力では飲酒をやめられず、同年12月25日に家族の判断で強制入院となった。クリスマスを家族と過ごしてからの入院というのが泣ける。

99年春に、3カ月の治療プログラムを終了して退院、以降は断酒を続けたという。

退院後、吾妻は、最初の失踪を描いた「夜を歩く」、2度目の失踪を描いた「街を歩く」、入院生活を描いた「アル中病棟」を描き、それらを『失踪日記』にまとめて出版した。

みんな、どれだけ失踪者が好きなんだよ

当初、吾妻は、失踪中の話は悲惨なことも多いから、猫を主人公にして描こうと考えていたが、話を聞いた漫画家のとり・みきが、「吾妻さん自身が主人公のほうが絶対に面白い」と言い、現行の形になったという。

それでも『失踪日記』並びにそれ以降の日記物や回想録の類も、すべてはリアルでありながら、どこか他人事の距離感とユーモアがあり、周囲の光景や人物には幻想表現が色濃い。

つげ義春の「無能」も、いじけの一種でそこはかとないユーモアがあったが、吾妻のそれはもっと明確にユーモラスだ。

かつて橋本治は「いじける」は受動態の「いじけ」とは違って能動的態度だとし〈「いじける」――自らの意思をもって無気力を装い、そのことによって生ずる自と他の落差を楽しみ、笑うこと。一般に美しいこととはされない〉(「全面肯定としての笑い」)と規定したが、吾妻は「いじける」に関して誰よりも能動的だった。

そして〝美しい〞レベルへ、さらには尊厳ある「いじける」にまで到達した。

『失踪日記』は第34回日本漫画家協会賞大賞、平成17年度文化庁メディア芸術祭マンガ部門大賞、第10回手塚治虫文化賞マンガ大賞、第37回日本SF大会星雲賞ノンフィクション部門、アングレーム国際漫画祭公式セレクション、ニューヨーク・マガジン2008年文化賞グラフィックノベルズ部門1位、グラン・グイニージ賞などを受賞している。みんな、どれだけ失踪者が好きなんだよ。

国内の漫画賞の授賞式では、旧知の漫画家たちも若手の吾妻ファンたちも温かく迎え、「失踪したい時もあるよね」な雰囲気だったという。

『失踪日記』出版時のインタビューでは「仕事は来ないし、限界だし、自分を苦しめるだけなので、ギャグマンガをやめる」と述べ、その後は『うつうつひでお日記』や『逃亡日記』など、日記や回想録のようなものがほとんどとなった。

しかしそれらの随所にユーモラスな表現がちりばめられており、けっきょくは漫画もギャグも好きなのだなとファンを喜ばせた。

そもそも日本漫画家協会賞の授賞式では〈失踪しないようにがんばります〉、文化庁メディア芸術祭マンガ部門大賞時には〈ホームレスはけっこう楽しいです〉と挨拶してウケを取った。

こうした挨拶は、アドリブが利かないので、あらかじめ漫画の創作時と同じようにネタを作っておくのだという。



つげ義春がしばしば否定形を取りながら強調した芸術漫画家としてのプライドや自らの表現へのこだわりは、吾妻ひでおにおいてはずっと軽く(〝軽々しく〞といってもいい)、揶揄かパロディとして描かれるのが常だ。

他の漫画家たちの作品に登場する美少女キャラクターを、自己流にアレンジしつつどんどん模写してみせる吾妻は、オリジナリティーの呪縛に囚われず、そもそも漫画表現は集合的理解に基づく記号であることを突きつける。

しかもその突きつけ方は、あくまでやわらかく無邪気で、子どもが好きな漫画を模写するのと変わらない。「〇〇センセイの絵、ここのところが難しいんだよねー」と楽しげに。それは絵を描く者なら誰もが憧れる、〝子どもが描いたような絵〞の完全形ではないか。

文/長山靖生 写真/Shutterstock

漫画のカリスマ

長山靖生
うつとアルコール依存症で失踪しホームレス生活へ。伝説の漫画家・吾妻ひでおの「失踪日記」が賞を総なめしたまさかの背景
漫画のカリスマ
2024/9/191,034円(税込)288ページISBN: 978-4334104245

反権力、革命、周縁、無能、彷徨
ロリコン、失踪、二次元、SF、異世界、神話……

4人を通じて読み解く
「日本の精神史」

◎内容


4人の漫画家、白土三平、つげ義春、吾妻ひでお、諸星大二郎。
いずれも個性的な作品を描き続け、今も熱狂的なファンを持つ。
あらゆる表現ジャンルと同様、最尖鋭の表現は、必ずしも売れる作品とはならず、
マニアックなものにとどまるケースも多い。
だが時代を経ても色あせない「漫画のカリスマ」ともいうべき表現者たちは、
後続の漫画家(志望者)たちを惹きつけ、畏敬され、
その遺伝子が次世代のポピュラーな表現を形作っていく。

全共闘・全学連世代の青年層に支持され思想的な影響力を持った
白土やつげが活躍した漫画雑誌は『ガロ』。
一方、トキワ荘グループの一世代後の吾妻や諸星は、
雑誌『COM』周辺から世に出、’70~’80年代の若者に支持され、
今日のオタク文化の主体を形作った。

彼らはどんな方法で時代を摑み取り、本質を抉る表現に到達したのか。


その作品はどう社会を動かし、変えたのか。
4人の作品と生涯を通し、
昭和戦後から現在に至る日本の精神史を読み解く。

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◎目次

はじめに――神様とカリスマ

第一章 白土三平――革命願望と権力の神話

第二章 つげ義春――実存と彷徨と猥雑と生活

第三章 吾妻ひでお――リアルと幻想に境界はあるのか

第四章 諸星大二郎――夢の侵犯、神話の復讐

第五章 エンタメでの自己表現の困難と、未来の漫画

おわりに


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