愛川ゆず季、グラドルやプロレスラー引退後に味わった「もう私の人生にはこれ以上ない」という絶望とそれを救ったかけがえのない存在
愛川ゆず季、グラドルやプロレスラー引退後に味わった「もう私の人生にはこれ以上ない」という絶望とそれを救ったかけがえのない存在

4月7日に第二子を出産し、ラッパーとして「Dis’s me feat. FRANKEN」をリリースしたことでも話題になっているタレントの愛川ゆず季。“ゆずポン”の愛称で知られる彼女は、グラビア、プロレス、そして2度の出産、ラッパーデビューとなぜ次々と新しいことに挑戦するのか…。

(前後編の前編) 

愛川ゆず季、人気グラドルの引退後

出産直後の大変な時期にも関わらず、愛くるしさは健在だった愛川。「子どもが起きちゃったらごめんなさい」と、第二子を抱きながら取材は始まった。

まずは出産直後にラッパーとしてデビューした経緯について話を聞くと、恥ずかしそうに「あれはネタなんです」と微笑んだ。

「私、特技が“身体を張ること”なんですが、妊娠中はさすがに難しくて。でも何かできることをしたい! と試行錯誤している時に『ライブ配信をしてみたら?』と声をかけていただいて。TikTokライブなんですが、やってみたらすごくいい空間を作ることができたんです。

今までで1番応援してもらっているんじゃないか? っていうくらい応援していただいてて…。でも出産前後は、配信をお休みしなければいけない。その期間に“このいい空間を繋ぐために何かしたい”と思って、それがラップでした」

《お経かよw》と突っ込まれることもあったそうだが、愛川は「妊娠中の私にしかできないことだった」と語る。そもそも彼女はなぜここまでチャレンジを続けるのだろうか?

「なんでも私にできることがあればチャレンジしたいっていう一心でした。もともと、私は頑張ることが好きなんです」

デビューしてすぐに人気グラドルの仲間入りをした彼女に、当時の話を聞くと「事務所のおかげです」と謙遜気味に答えた。

「マネージャーさんからには常に『事務所のおかげだから、勘違いしちゃダメだよ』って言われていました(笑)。グラドルとしての目標は青年誌の表紙だったので、1か月で『週刊ヤングジャンプ』の表紙が決まって、嬉しかったんですが、反対に早々に“やりきった感”を感じていました」

人気があっても寿命は短いと言われているグラビアの世界だが、愛川は、7年間バイトもせずに、グラドル1本で食っていけていたという。

「所属していたプラチナムプロダクションには若槻千夏さんとかすごい方がたくさんいたので、バーター(抱き合わせ出演)でバラエティ番組に出させてもらったりしていました。特に目標もやめるタイミングもないまま過ごしていたら、アラサーになっていて、いつの間にか“崖っぷちアイドル”になっていました(笑)」

そんな愛川にきた仕事は、『崖っぷち~アラビアンサイトFEVER』(TBS系)という番組の企画で“自身のブログに3か月間で2000万アクセスいかないと強制引退”というものだった。

「私に選択肢はなかったし『やってやるよ!』って強い気持ちで臨みました。炎上もあったんですが、すぐに2000万アクセスをクリアして引退は免れました。でも、もしクリアできずに引退となっても構わないという覚悟がありましたね」

「プロレスで絶対に成功してやる!」

引退の危機を免れた愛川が次に挑戦したのが、プロレスだった。

2010年、同じ事務所に所属していた人気女子プロレスラーの風香の引退試合を見たマネージャーに「お前だったらいける!」と背中を押されたのがきっかけだったと話す。

「グラドルとしての目標をすぐに達成してしまって、バラエティやお芝居も経験したんですが…。おしゃべりや演技は頑張ればできるっていうものではないというか、頑張り方がわからなくて難しかったんです。その点、プロレスは身体を張ったら張った分、評価してもらえるから、私にはもってこいだと思いました」

練習を重ね、プロレスラーとしてデビューするまでの期間は半年間雀荘で働きながら生活費を稼いでいたそう。

「面接をしてくれた雀荘の店長には『愛川ゆず季ちゃんだよね?』ってすぐに気づかれてしまって『バニーガールの格好したら、時給1000円UPするよ』と言われました(笑)」

当時としては、時給2000円以上の高時給だったが、この話には乗らなかったという。その理由を「プロレスで絶対に成功してやる!って強い気持ちがあったから」と当時を振り返る。

「バニーガール以外にも、キャバクラとか夜のバイトをすることも一瞬頭をよぎりました。でも『絶対プロレスで売れてやる!』っていう強い気持ちがあったから、後で何か言われたくなくて絶対にやらなかった。

金銭的にはきつかったけど踏ん張って乗り越えました」

当時は人気グラドルがプロレスデビューをするということで大きな話題になったが、心ない声に傷つくこともあった。

「完全にイロモノ扱い。プロレスファンには『グラドルがリングに上がるな!』と散々叩かれましたね。だけど、試合をするたびに私の頑張りを認めてくれる人が増えました。頑張った甲斐があったな、プロレスっていいなと心から思えました」

「人生のピークでした」

2011年、2012年と2年連続でプロレス大賞を受賞した愛川。だが2回目の受賞直後に彼女は引退を決める。両国国技館で引退イベントを行い、ドレスに身を包んだ愛川は5500人のファンの大声援の中、リングを後にした。

「人生のピークでした。周りにもそう言われたし、幸せを感じるのと同時に『もう私の人生にはこれ以上がないんだ』と絶望した記憶があります」

実際に引退してからの30歳から35歳までの5年間は、毎日が同じことの繰り返しで人生に飽きていたんだとか。

「だけど、35歳で結婚して、子どもが産まれて目の前の景色が変わりました。プロレスを引退して絶望していた気持ちを変えてくれたのが子どもでした。何をやってもワクワクしない、頑張りたいのに頑張る気力がでない。

そんな私を子どもの存在が救ってくれました」

子どもが学ばせてくれて、与えてくれた。「私が新たに頑張る原動力になっています」と愛川は目を輝かせていた。

取材・文/吉沢さりぃ

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