
ケニア共和国。アフリカ大陸の東海岸に接するこの国は、雄大な自然を有する一方で、国民すべてが文化的な生活を送れているとは言い難い発展途上国だ。
「初めてプレーしたとき、このスポーツは何かが違うと感じた」
10か月後に迫ったワールドベースボールクラシック(WBC)2026。前回大会は大谷翔平の投打にわたる活躍で日本が14年ぶりの世界一に輝いたこともあり、すでに胸を躍らせている野球ファンは少なくないだろう。
今大会の本戦出場国数は20か国。そのうち16か国は前回大会の成績から無条件で本戦へと出場できるが、残り4つの枠をかけて熾烈な予選が繰り広げられていたことは、野球熱の高い日本ですらあまり報じられなかった。
この予選にアフリカ大陸から唯一出場したのが南アフリカ共和国だったが、3戦全敗で予選リーグ敗退。オスカーくんはその南アフリカ共和国よりもはるかに野球後進国であるケニアから、本気でNPB入りを目指す20歳の青年だ。
「初めてグローブをつけバットを握ったとき、このスポーツは何かが違うと感じたんです。
投球直前の静かな緊張感……マウンドにいても打席にいても、準備・集中力・アドレナリンのすべてが交わるこの瞬間は自分が生きていることを実感します。
そして、それがすべてうまく噛み合うと、まるで魔法のようにいい球が投げられ、打者としてボールにピントを合わせることができるんです」
サッカーや陸上競技が盛んなケニアにおいて超マイナースポーツである野球の魅力をそう語るオスカーくんが、初めて野球の存在を知ったのは10歳のころ。そして、ここ数年はケニア人初のプロ野球選手になるために独学でトレーニングを重ねている。
じつはケニアでも甲子園大会(Kenya Koshien Championship)が2023年から毎年首都ナイロビで開催されており、オスカーくんはこの第1回大会で優勝し、5打席連続ホームランを放つなどの活躍でMVPを獲得している。
「甲子園」といっても参加チームはわずか4チーム(地方予選を含めると15校)で、J-ABS(一般財団法人アフリカ野球ソフト振興機構)代表理事の友成晋也氏によると、日本の中学生かそれ以下のレベルだという。5打席連続ホームランもフェンスオーバーではなく、外野の間を抜いたランニングホームランや外野守備の拙さがもたらしたものだ。
それでも彼が「僕が野球を選んだのではなく、野球が僕を選んでくれた」と思うには十分な舞台だった。
「オスカー選手はケニア野球のレベルからすれば突出した存在ですので、環境が変わってより高いレベルに身を置くことができれば、もっと成長する可能性は十分にあります」(友成氏)
SNSで支援の呼びかけると誹謗中傷のメッセージが多数
しかし、そのレベルの高い環境に身を置くことがケニアでは簡単ではない。セカンダリースクール(高校)を卒業後、日雇い労働などをして生活費を稼ぎながら野球を続けているオスカーくん。彼が所属する、昨年発足したというケニアリーグは日本でいうところの草野球のようなもの。これではプロになるなど夢のまた夢だ。
そこでオスカーくんはXアカウントを作成し、素振りや投球練習などの動画を投稿するとともに、世界中の野球ファンへ支援を呼び掛けることにした。
「ケニアから日本でプロとしてプレーする夢を追い求めるには、才能だけでなく、より高いレベルの試合やトレーニングに触れることが必要です。
そこで、まずは隣国のウガンダに野球留学へ行く資金をクラウドファンディングで集めることにしたのです。ウガンダは東アフリカの中でも野球が盛んで、僕のような技術向上を目指す選手にとって理想的な国なのです」(オスカーくん)
NPBを目指す彼は、主に日本語で投稿を行っている。だが、彼の練習する姿は目の肥えた日本の野球ファンからは素人同然に映るようで……。
「応援してくれる人もたくさんいます。でも『話にならない』『早く諦めろ』といったメッセージは多く届きますし、ひどいときは『beggar』(物乞い)と言われることもあります。
僕も人間だから悲しみを感じる。簡単な道のりじゃないことはわかっています。でも夢はすべてを変えることができると信じているから、決して諦めません」(オスカーくん)
オスカーくんがMLBではなくNPBを目指す理由
それにしても、なぜMLBではなくNPBを目指すのか。
「MLBは世界最大の野球リーグですが、僕は日本の野球文化とスタイルに惹かれます。日本人選手が規律、正確さ、チームスピリットを重視する姿は、僕の野球観に合致する価値観です。
僕にとって野球とは、パワーや名声のためだけのものではなく、基本をマスターし、試合を尊重し、自分よりも大きなものの一部となることです。
NPBは努力とハートが才能と同じくらい重要で、僕はそこに深いインスピレーションを感じているから、NPBの選手になりたいのです」
プロ野球を目指すには非常に厳しいケニアの環境だが、オスカーくんは「野球人気は少しずつ広がっている」と話す。
ケニア野球連盟(BFK)の報告によると、ナイロビ、メルー、ミゴリ、マクエニなど20州で野球は活発となっていて、メルーにはケニアで唯一本格的な野球場もあるそうだ。
5月22日で20歳になったオスカーくん。残された時間は決して多くはない。
「僕はハードワークを恐れないし、適切な指導を受ければプロレベルに到達できると信じています。
僕は自分のためだけにこの夢を追いかけているのではありません。たとえ手が届かないと感じても、努力すれば夢を叶えられるということを母国の子供たちに伝えたいのです」
野球はまだまだ世界のマイナースポーツ。あらゆる国の子供たちが白球を追いかけている……そんな世界がいつか実現することを、野球ファンのひとりとして願うなら、彼の夢を決して笑ってはいけないのではないか。
取材・文/武松佑季