
一切の欲を断ち切ったことから、悪縁を切るご利益があると信仰される崇徳天皇。だが、実は日本三大怨霊の一人といわれている。
『真・日本の歴史』(幻冬舎)より、一部を抜粋・再構成してお届けする。
最強の怨霊となった崇徳上皇の悲しい出生
崇徳上皇とは、天皇家の相続争いとして知られる「保元の乱」(1156年)の原因となった上皇です。では、なぜ激しい相続争いに発展したのかご説明しましょう。
実は崇徳上皇という方は、歴史上最も気の毒な天皇(上皇)なのです。
話は12世紀初頭に即位した鳥羽天皇に遡ります。
鳥羽天皇は、后である藤原璋子との間に生まれた皇子がいました。ところがこの子供、表向きは鳥羽天皇の子供ということになっているのですが、実は鳥羽天皇の祖父である白河法皇が、孫である鳥羽天皇の嫁に手をつけて産ませた子だったとも言われています。
つまり、鳥羽天皇は可哀想なことに、自分の妻を祖父に寝取られた上、子供まで産まされてしまったということです。
祖父の子供なので、鳥羽天皇にとってこの子供は父親の弟、つまり叔父にあたることになります。そこで鳥羽天皇は、その子のことを陰で「叔父子」と呼んでいました。これは当時の記録である『古事談』という本に書かれていることです。
そして、この叔父子こそ、後の崇徳天皇なのです。
これだけでも充分悲劇ですが、白河法皇は、鳥羽天皇に早く天皇を退き、自分の子供である叔父子に皇位を譲れと迫ったのですから、なんとも不愉快な話です。
しかし、絶対的な権力を持つ祖父に逆らえない鳥羽天皇は、ぐっと堪え、復讐の機会を待つことにしたのです。
そして、白河法皇が亡くなると、鳥羽上皇は待っていましたとばかりに、本当に自分の血を引いた皇子を天皇の位に就けようと動き出します。
しかし、そのためには、まず崇徳天皇を退位させなければなりません。そこで鳥羽上皇は、崇徳天皇をいじめ抜きました。そして、たまりかねて崇徳天皇が譲位を承諾すると、本当の息子に天皇を継がせました。これが近衛天皇です。
なぜ年上の後白河がいたのに、近衛が先に皇位を継いだのか
それでもそのまま近衛天皇が長生きしていれば問題はなかったのですが、近衛天皇は10代の若さで亡くなってしまいます。
近衛天皇が早逝したとき、崇徳上皇は自分の息子が天皇になれると思っていました。なぜなら系図の上では崇徳と近衛は兄弟なので、一度は弟に皇位を譲ったものの、本来の天皇家のルールから言えば、長男である崇徳の長男が跡を継ぐのが当然だったからです。
ところが、鳥羽上皇は、それまで一度も皇位を継いだことのなかった別の息子に皇位を継がせてしまったのです。これがのちに後白河と呼ばれる天皇ですが、実はこの後白河さんは、近衛さんよりも年上だったのです。
では、なぜ年上の後白河がいたのに、近衛が先に皇位を継いだのかというと、後白河はあの璋子が産んだ子だったからでした。
鳥羽上皇の心理を分析すると、こうなります。近衛は、自分の血を引いた子だから天皇にしたけれど、亡くなってしまった。でも、崇徳は叔父子だから、こいつの息子には絶対に跡を継がせたくない。しかし、近衛は子供を残さずに死んでしまった。
そこで、白河の子(崇徳)を産んだ璋子が産んだ子なので、それまで冷や飯を食っていた後白河だが、間違いなく自分の子なので跡を継がせた、というわけです。
問題は崇徳です。彼はどうやら自分が叔父子であるということを知らなかったようなのです。
では、ここで崇徳の気持ちになって考えてみましょう。
自分は父親に反抗しているわけではない。それどころか子供としてきちんと尽くしているのに、父である鳥羽上皇は、何かにつけ自分をいじめ抜く。一体どうしてこんなことになるのだろう。
そこで崇徳は、ちょうど鳥羽上皇が白河法皇が死ぬのを待っていたように、鳥羽上皇が死ぬのを待つことにしました。
後白河の無慈悲が生んだ崇徳の呪い
その後、確かにチャンスは巡ってきたのですが、崇徳が自分の子供を皇位に就けようとしたことで、朝廷は後白河天皇をそのまま維持しようという一派と、崇徳上皇の息子に跡を継がせるべきだという派に真っ二つに分かれてしまいました。
それでもこのとき、もし武士というものがいなければ、朝廷内の殴り合いで済んだかもしれないのですが、一度上皇になると、武士団を保護する立場に就くのが当時の常識でしたから、崇徳上皇の周りにはそういう人々がいました。
もちろん、後白河天皇も、鳥羽上皇の強い意志で跡を継いだ人間ですから、鳥羽上皇が保護していた武士団を使うことができました。
その結果、後白河派と崇徳派に真っ二つに分かれた朝廷の意向を受けた武士団が武力衝突し、代理戦争を始めることになってしまったのです。これが保元の乱でした。
後白河天皇は、のちに鎌倉幕府を創設した源頼朝に「日本一の大天狗」と呼ばれたほどの海千山千の男ですから、やはり戦争もうまく、平清盛と源義朝(頼朝の父)という二大勢力の長を味方につけ、争いを有利に運びました。
その結果、保元の乱は後白河天皇側が勝ち、敗れた崇徳上皇は讃岐(現在の香川県)に島流しにされ、その息子も出家させられ、天皇の相続権を失うことになりました。
このように言うと、激しい戦いの末、崇徳上皇側が敗れたように思うかもしれませんが、実際には、崇徳上皇は途中で矛を収めたのでした。そうして出家でもすれば、流罪を免れることができるのではないか、と思ったからでした。
しかし、後白河天皇は、崇徳上皇を許さず、流罪にしてしまいました。
思惑が外れた崇徳でしたが、それでも彼は配所の讃岐でおとなしく、一心に写経に務めて過ごしました。
写経というのは、読んで字のごとく、お経を書写することなのですが、これは同時にお経を読むことでもあるので、仏教に帰依し、慈悲の心を育てる行為でもあります。
そうして崇徳は、「五部大乗経」と呼ばれる膨大な経典を写し終えます。そして、この写し終えた教典を、崇徳は都の後白河のもとに送り、しかるべき寺に納めてくれるよう依頼しました。今でもそうですが、写経は基本的にお寺に納めるのが決まりだからです。
ところが後白河は、なんとその膨大なお経をそっくりそのまま讃岐の崇徳のもとに送り返したのです。
これに激怒した崇徳は、自分の右手の人差し指の先を食いちぎり、その血を使って、「この五部大乗経すべてを魔道に回向する」と言い放ちました。
さらに、天皇家を没落させ、天皇家以外の者をこの国の王にする、と呪いの言葉を発したのです。
そしてそれ以後、崇徳は髪も切らず、ひげも剃らず、爪も切らず、まさに化け物のような恐ろしい姿で天皇家を呪い続け、この世を去ったのです。
問題は、その後です。
人々は「崇徳上皇の呪いが実現した」と戦慄
保元の乱をきっかけに、平清盛や源義朝といった有力武士が宮廷の政治に口を出すようになり、やがて対立する両武家は、武家の棟梁の座をかけた戦いに突き進んでいきました。この争いに決着をつけたのが「平治の乱」です。
平治の乱によって、源氏は中央から追い払われ、平家の天下が到来したわけですが、その後、どうなっていったか、皆さんはご存じでしょう。
平治の乱で敗れた源氏の御曹司である源頼朝が、平家を滅ぼし、後に幕府と呼ばれる軍事政権を打ち立てたのです。そして、その軍事政権を引き継いだ北条氏の北条義時は、なんと後鳥羽上皇を島流しにしたのです。
こうした世の移り変わりを目の当たりにした人々がどう思ったか、おわかりでしょうか?
そうです、人々は「崇徳上皇の呪いが実現した」と戦慄したのです。
事実、室町時代に書かれた『太平記』には、怨霊たちが、京の近郊に集まって世を乱す相談をしているというシーンが出てきますが、その魔王会議の首座にいるのは、金色の鳶に体を変えた崇徳上皇だ、となっていました。
『太平記』は、講談の源流と言われる書です。講談というのは、ごく簡単に言えば「読み聞かせ」です。日本という国は、こうしたものの発達によって、文字が読めなくても文学作品が楽しめた、世界でも稀な素晴らしい伝統を持つ国なのですが、だからこそ近代以前、崇徳上皇が日本最強の怨霊だということは、庶民も含めて日本人の常識だったのです。
ここで注目していただきたいのは、崇徳上皇が自らの人差し指を食いちぎって、その血を以て「この五部大乗経すべてを魔道に回向する」と言ったことが実現したと皆が思ったということです。
こういう言い方をすれば、この意味がおわかりいただけるでしょうか?
たとえば、西欧にはドラキュラという化け物がいます。吸血鬼ですね。しかしドラキュラがいかに強い力を持っていたとしても、自分の指を食いちぎって血を塗りつけて、「この聖書の力をすべて悪の方向に向ける」などと言うことができますか?
むしろドラキュラは、聖書を見ると恐れて逃げますよね。それが普通の化け物なのです。
ところが、日本だけは違います。なんと、あの仏教の膨大な正のパワーを、怨霊の一存で負にできる、ということなのです。
そして、その話は昔から隠すこともなく伝えられてきました。それゆえ『太平記』にも最強の怨霊として崇徳上皇が登場するわけです。
だからこそ、日本の神々への信仰の中でも、最大最強のものは、怨霊信仰なのです。
さて怨霊信仰というものが、日本文化にとっていかに強大なものかわかっていただけたでしょうか。
文/井沢元彦 サムネイル/Shutterstock
『真・日本の歴史』(幻冬舎)
井沢 元彦
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