
ビョーク、IVEなど数々の有名アーティストやファッションブランドからラブコールを受けている、いま世界が最も注目するネイリストTomoya Nakagawa。東京都出身で現在はニューヨークに拠点を置く彼の生み出す作品は、立体的で独特な世界観が特徴で、世代を問わず多くの人を魅了しているが、ネイリストの前はなんと和歌山で漁師をしていた。
アパレル店員、フレグランス会社、浮き輪メーカー……転々とした先に見えた道
――IVEなどのK-POPアイドルや世界的アーティスト・ビョークなどから指名が殺到するTomoyaさん。前職が漁師ということでも話題ですが、これまでのお仕事について教えてください。
Tomoya Nakagawa(以下、同) 本当にいろいろやってきました。アパレルの店員、フレグランスの制作会社、浮き輪メーカー、漁師を経て、現在はネイリストをやっています。そのなかでも経歴としては10代から30歳目前まで続けてきたアパレル店員がいちばん長いですね。
将来的にはアパレル系の職で社員になって、安定した働き方ができればいいかなと考えていたのですが、たまたまフレグランス会社の方から声をかけられて転職しました。
その同時期に勤めていたアパレル会社から本社勤務の話ももらっていたので、安定した道を選ぶかどうか、ものすごく悩みましたが、最終的には自分が面白そうだと思える道を選んだんです。
――フレグランス会社でのご経験はどうでしたか?
ディフューザーやキャンドルなどを主に制作していたんですが、そういった商品のボトルや、ラベル、パッケージ、そして香料の液体までいろんなものを、それぞれ異なる会社に見積もりを出して発注し、企画から販売まで携わりました。
商品ができるまでの一連の流れを学べたことは自分のなかで大きな財産になりましたね。自分でも何か創ってみたいという“モノづくり欲”はずっと持っていたので、その後立ち上げた浮き輪を作る会社でも、この時の経験を生かしていました。
――ご自身の“モノづくり欲”から始められたのが浮き輪メーカーの会社だったのですね。
そうですね。
この時は2015年で、インスタグラムの“映え文化”がちょうど始まった頃。当時は今ほど映える浮き輪もなかったので、友人たちと「カワイイ浮き輪が欲しいね」って話して、立ち上げました。
1期目は順調に売り上げを伸ばして、ファッション雑誌の撮影に使われたり、海外からも撮影で使いたいという依頼を受けることもあったり、SNSでも世界各国からDMやコメントが何万と来るような状況で、「これはイケる!」と思いました。
でも2期目からうちの会社のコピー品や廉価版の商品が他社から出始めて、正直「もうダメかも」と思ったんですが、自分が立ち上げた会社が1期目で終わるのもカッコ悪いって思って、見栄を張って続けちゃったんです。
そんな気持ちで挑んだからか、結局その後は納得のいくものができなくて全然売れず、3期目で会社はたたみました。
「こんなに頑張ったこと、これまでの人生であっただろうか」
――そこから漁師の道へはどのように進まれたんでしょうか?
浮き輪の会社をたたんでからしばらくはアルバイト生活で、千駄ヶ谷にあるラーメン屋と、歌舞伎町のラブホテルでバイトをしていました。職場には面白い人たちがたくさんいて楽しかったんですが、自分にとってはこのままずっと続けていく仕事ではないなって感じていました。
ラーメン屋ではアパレル関係の知り合いに会うことが頻繁にあり、自分の事業が失敗したことを話さないといけない機会が多くて、最初はそのことが嫌だったんです。
でも、だんだんと「失敗って恥じることじゃない」って思えて、それから気がすごく楽になり、東京という場所に縛られる必要もなんじゃないかって思い始めました。
そんなときに旅行で和歌山県の串本という町を訪れて、とても楽しくて気に入ったので、その後串本のことをいろいろ調べていくうちに、現地での漁師募集の広告を見つけて応募してみたんです。
――もともと漁師に興味があったんでしょうか?
串本を旅行した際に釣りを体験したんですが、それがけっこう楽しくて、漁も楽しいのかもしれないと興味を惹かれましたね。
あとは北海道にいる友達で漁師をやっているかっこいい方がいて、もともと憧れの職業ではありました。
フレグランス会社の時もですが、今までやったことないことに挑戦してみたいって気持ちは自分のなかで大きいかもしれません。
――漁師を体験するなかで、何か仕事に対する価値観の変化などはありましたか?
すごくメンタルが強くなりましたね。チャレンジしてみると意外となんとかなるというか、できないことはないんだなっていう自信を持てるようになりました。
あとは、全く知らない土地で、ゼロから人間関係の構築をしていったことで、コミュニケーション能力がかなり養われました。この頃の経験は、現在の海外での生活でも役立っていると思います。
――そこからなぜネイリストになったのでしょうか。
漁師をはじめてからちょうど1年経つ頃の年内最後の漁を終えて、港へ帰る途中、ふと「ああ~漁師よく頑張ったな、自分」って感じたんですよ。
まだまだできないことも多くて、毎日怒られていましたけど、それでも自分がここまで何かに対して投げ出さずに根気よく頑張れたことって、今までなかったよなって。達成感というか、自分のなかで一区切りついた気がしたんですよね。
そこでまたモノづくりに対する欲が湧きあがってきたんです。そんななか、当時お付き合いしていたパートナーがニューヨークでネイリストをしていて、「何かやりたいことが見つかるかもしれないから、ニューヨークに来てみたら?」と誘われたんです。
でもニューヨークに滞在し始めた直後に、コロナが流行してロックダウンになってしまい、そんな状況で家から出られない日々が続いたので、パートナーの自宅のアトリエで暇つぶしがてらネイルをし始めたのが最初のきっかけです。
でも、今思い出してみると、実ははじめてネイルに触れたのはこの時ではなくて、高校生の頃なんです。高校生の頃は“ギャルカルチャー”にハマっていて、ネイルも好きだったので、高校2年生の時に母親にお願いしてネイルスクールに通わせてもらっていたんです。
その時はいろいろな都合であきらめちゃいましたが、いま大人になってから再びネイルに巡り合ったことは不思議だし、面白い体験だなと思いますね。
“母には何も言わず、基本すべて事後報告”親子関係に変化が訪れたきっかけ
――ご家族はTomoyaさんの決断に対してどんな意見を持っていらっしゃったのでしょうか?
僕は基本家族に相談しないで、すべて事後報告なんです。ニューヨークに行った時もそうでした。
父は僕が25歳の時に他界してしまったんですが、父は決して否定せず、なんでも「面白そうじゃないか! やってみろ!」みたいなタイプなんですけど、母は真逆で……。
僕がやりたいと思っていることとか、頑張っていることに対して、あまりポジティブな言葉をくれるタイプじゃなかったので、ある時から相談することはやめたんです。
そんな母が僕の現在の活動を認めてくれたのかなと思う出来事がありました。僕が出版した書籍を、僕の姉づたいに知って読んだらしいんですけど、それからは「あんたよく頑張っていたんだね~」って言ってくれて、やっと認めてくれたみたいで(笑)。
母としては、僕が安定した職業についていなかったこともあって、いま何をしているのかとか、ちゃんと稼げているのかとか、いろいろ不安だったんだろうなと思います。いまはネイリストとしてきちんと稼げるようになったので、母も安心してくれていると思います。
NYの街並み、自然、水の動き……目に見えるものすべてが作品のヒント
――Tomoyaさんのネイル作品は3Dの立体的で幻想的な雰囲気の作品が多いですよね。
目に見えるものはすべてインスピレーションのもとになっています。例えば現在いるニューヨークの街並みとか、家具の複雑な模様とか……。
あとは漁師時代に見ていた、魚の色や、光り方、そして水の動きもよく観察していたので、ネイルをやり始めた初期は、そういったものに影響を受けていたかもしれません。
幼いころに旅行したハワイのヤシの木や青い空も好きで、そういった自然の生み出す綺麗なものを観察するクセがありますね。
――つい最近では楽曲「MK5」で歌手デビューも果たされていますが、今後新たにやってみたいことは何かありますか?
とにかくネイリストとしての技術をもっと高めていきたいですね。これまではアトリエ作業がメインで、ネイルサロンでお客さん相手に対面でネイルアートをすることの経験があまりなかったんです。
でも肩書が「ネイリスト」である以上、ネイルアートができるようにならないとな、とは思っていて。いまはニューヨークのネイルサロンに勤めて、ネイルアートを極めています。
現在はアシスタントなしで現場に1人で行けるくらいには成長できたのですが、もっともっと上手くなって“最強”のネイリストになりたいですね。
取材・文/瑠璃光丸凪/A4studio