
報道編集の現場では、耐え難いほどの凄惨な事件にも直面しますが、いかなるときでも冷静な判断やスピードを求められます。放送に追われる中、知らない間に心の中に積もり積もったものがあふれ出し、メンタルをやられる編集者が多いことも事実です。
8人の児童を殺害、13人の児童と2人の教員が重軽傷
2001年(平成13年)6月8日、小学校に男が乱入し、多数のけが人が出ていると報道部に一報が入りました。その後、次々に送られてくる情報と映像は悲惨なものでした。
最初に入ってきた映像はヘリコプターからの映像。校舎に横付けにされた救急車に次々と担架が運び込まれていました。その中には、救急隊員が心臓マッサージをしている姿も映っています。
「心肺停止になっている子どもがいるのか!」と驚きました。今でもその映像が鮮明に頭に浮かんできます。
大阪府池田市にある大阪教育大学附属池田小学校。午前10時を少し過ぎて、2時間目がそろそろ終わりを迎えていた頃でした。小学校の通用門から、出刃包丁と文化包丁の入ったビニール袋を手にした男が校内に侵入したのです。
男はまず2年南組に押し入り、5名の児童を包丁で突き刺し、続いて西組に向かい、次々と児童に襲い掛かりました。恐怖にかられて逃げる子どもたちを追い回し、止めに入った教員にも刃を向けました。
そしてこの凶行によって1年生男子児童が1名、2年生女子児童7名が命を落とし、他に13名の児童と2名の教員が負傷したのです。
この事件の犯人は、駆けつけた警官に現行犯逮捕され、すぐに顔写真も手に入ったので、大慌てで編集作業にかかりました。しかし、直後に犯人が精神科に通院した履歴や入院歴があったことが判明、匿名報道に切り替わりました。
そうなると顔写真は使用できません。急いで編集をやり直します。その後、大阪府警は犯人の刑事責任は問えるという判断を下します。マスコミはこの時点で実名報道に切り替えます。編集では再び顔写真の準備をすることになりました。
顔写真を使用するタイミングは報道デスクの判断によりますが、我々編集者は、即座に放送に出せるように可能な限りのスタンバイをしています。
殺人事件などで加害者に精神障害が疑われるような場合、どのように伝えるかは十分に気をつけなくてはなりません。通院歴、入院歴の報道が先走り、精神障害が事件の原因であるかのような印象を社会に与え、差別や偏見を助長してしまう可能性があるからです。
実際にこの事件の報道に対して、「精神病者はみな危険という画一的なイメージ(=偏見)を助長してしまう」という意見を全国精神障害者家族会連合会が報道機関に出しています。
「エリートの子をたくさん殺せば、死刑になると思った」
この事件では、犯人が統合失調症を装っていたことが後に明らかになりました。大阪地裁が依頼した精神鑑定でも精神疾患が明確に否定されたのです。
裁判長に「犯罪史上類を見ない凶悪犯罪」と言わしめた犯人は、宅間守(事件当時37歳)。「エリートでインテリの子をたくさん殺せば、確実に死刑になると思った」と、犯行動機を語りました。そして事件から2年後の2003年8月、大阪地裁で死刑判決が言い渡されました。即座に弁護人が控訴しましたが、宅間自身がそれを取り下げ死刑が確定しました。
この事件のあと、池田小学校の子どもたちの精神状態が心配されました。当然、学校も保護者も子どもたちのメンタルケアには非常に神経質になっていました。子どもや保護者への取材は、厳しく制限していたと記憶しています。
ニュース映像に携わる私たちも子どもたちの顔を出さないように細心の注意を払い編集していました。ですので、子ども、保護者のインタビューや登校風景などは常に顔から下の部分を撮影した映像のみです。
当時、編集者であった私は、撮影された取材テープの中にある子どもたちへのインタビューが、本当に使用して大丈夫な映像なのかを常に確認するように心がけていました。
それにしても、連日放送される映像は子どもたちの足元だけ。広いサイズの映像でも顔部分にはモザイク…と、私たちの作っている映像に子どもの顔は一切、出てきません。
事件からしばらくのち、当時ヴィッセル神戸にいた三浦知良選手などJリーグのプロサッカー選手らが、子どもたちの心のケアの一環として学校を訪問し、子どもたちと一緒にサッカーをするというイベントがありました。
そのときのニュースでは、笑顔のサッカー選手の周辺に顔にモザイク加工をした大勢の子どもたち。子どもたちの楽しい歓声は響き渡っているのに顔だけは見えないという映像でした。大事件が起こるとこの「顔の見えない編集」をよくするのですが、いつも異様な感覚を覚えます。
また、撮影してきた映像には、放送を憚られるような凄惨な映像もあります。この池田小の事件でも、警察の現場検証が終わったあとに許された取材では、血まみれになった教室が撮影されていました。
これは事件の悲惨さを伝えるために当初は使用しましたが、私は早い段階で使うのを止めました。遺族や被害者、関係者らがその映像を見ることによって、事件をフラッシュバックしないようにとの配慮です。後輩の編集者には、一般の視聴者も大事だが、ご遺族の方の目線を基準に考えることも忘れてはならないと伝えてきました。
この事件では、編集者の中でも精神的に不安定になる人が出てきました。子どもを狙った無差別の大量殺人事件です。特に同じ年頃の子どもを持つ編集者からすれば、冷静な気持ちで繋ぎ続けられるものではありません。
「もうこのネタは無理です」と言った後輩もいて、その人には当分、これとは真逆の平和なネタを担当してもらうようにしました。本当につくづく過酷な仕事だと思います。
それでも誰かが画を見て判断しないといけません。私もやりきれない気持ちはありましたが、この事件を伝えることの重要性を考え続けたことで、なんとか自分を保てたのではないかと思っています。
死刑判決確定からわずか1年後に執行
この事件の犯人、宅間守は死刑判決確定からわずか1年後の2004年9月14日に死刑が執行されています。実は、これほど早い執行は異例です。
殺人、殺人未遂、建造物侵入、銃刀法違反で起訴された宅間。前述のとおり「エリートでインテリの子をたくさん殺せば、確実に死刑になると思った」と犯行動機を語りましたが、池田小は国立大学の附属で、宅間自身が系列の池田中への進学を望んでいたにもかかわらず、家庭環境からそれが叶わなかったとも伝えられています。
子どもたちに対する妬みや嫉妬があったのかもしれません。
異例の早い死刑執行は、宅間本人が控訴を取り下げ、死刑を望んでいたということもあるかもしれませんが、死刑執行をする側(国)からすればこれほどの凶悪犯罪ですから、世論からは反発はないという判断も働いたと思います。
「死刑のはんこを押して、昼のニュースのトップになるのはそういうときだけという地味な役職だ」と言った法務大臣もいましたが、宅間死刑囚は法務大臣にとっては、はんこを押しやすい存在であり、昼のニュースに大臣自身の名前が出る格好のチャンスだったのでしょう。
しかし、その一方で長年執行されない死刑囚もいます。なぜその人たちにははんこを押さないのでしょうか。そこには、目立ちたがりの法務大臣でも躊躇する理由が存在するのでしょうか。それとも、もし冤罪だったとのちにわかった場合、取り返しがつかない汚点を残してしまうことを恐れているのでしょうか。
そして、執行のタイミングも“世間受け”を考えているのではないかとも推測してしまいます。報道をする側は、国家が死刑執行を政治利用するようなことになってはいないかどうかをチェックする必要があると強く感じます。
私自身は、冤罪を生みやすい捜査や裁判所が存在する以上は、死刑制度には反対です。今後、死刑が執行されたとき、マスコミは単に執行された事実だけを報じるのではなく、日本の死刑制度を真剣に考えてみる報道もすべきではないでしょうか。
文/宮村浩高