〈松井秀喜氏も追悼〉「“4番の音”になるまで素振り」長嶋茂雄さん、最後の芸術作品「ゴジラ“4番1000日計画”」の真実
〈松井秀喜氏も追悼〉「“4番の音”になるまで素振り」長嶋茂雄さん、最後の芸術作品「ゴジラ“4番1000日計画”」の真実

2025年6月3日、球史に数々の記憶と記録を残した長嶋茂雄さんがその生涯を終えた。享年89歳。

戦後日本のスポーツ文化に多大な影響を与えた“ミスタープロ野球”は、単なる名選手でも名監督でもない、「伝説」そのものだった。彼が紡いだ数々の名場面の中から、、監督時代に巨人の4番に据え、20世紀最後の「ON対決」に勝利して日本一を掴んだ、愛弟子・松井秀喜との物語を紹介したい。

松井の素振りが“4番の音”になるまで見守ったミスター

「一番は感謝だけ。監督の出会いがなければ松井秀喜という野球選手はまったく違う人生を送っていたと思う。2人の時間、また私に授けてくださったたくさんのすべてにありがとうございました、とお伝えさせていただきました」

4日早朝、弔問のため長嶋さんに自宅を訪れ、2時間以上滞在した後の囲み取材でそう語った松井秀喜氏。

この、日本一有名な師弟のふたりがひとつの集大成を迎えたのが2000年といえるだろう。巨人が20世紀最後の日本シリーズを制したこの年の野球界の中心には、指揮官・長嶋茂雄さんと背番号55の「4番・松井秀喜」がいた。

この年の松井は2度目の打撃二冠と、シーズンMVPを獲得。さらに日本シリーズMVPにも輝き、イチローに並ぶ球界の“顔”として不動の地位を築いた。だが、そこに至るまでには、長嶋と二人三脚で歩んだ7年間という長い育成の道のりがあった。すべての始まりは、1993年のドラフトからである。

星稜高校で通算60本塁打を記録し、甲子園で全国的な注目を浴びていた松井。ドラフトでは4球団が競合したが、当時の長嶋監督が見事抽選を引き当てて獲得。



入団早々、長嶋さんは松井に期待し、監督人生をかけた決断をする。それが「4番1000日計画」だった。この“育成プロジェクト”の最大の特徴は、合理性よりも「感覚」を重視すること。

長嶋さんは何度もマンツーマンで松井の素振りを見守った。フォームの形や打球の飛距離よりも、重視したのは「音」だった。トップスピードで振り抜いた際にバットが生む風切り音が、自らの理想とする「4番の音」になるまで、終わりはなかった。

この“感覚で育てる”というスタイルは、一見すると非効率にも思える。しかし、それは長嶋さんなりの「スターの育て方」だった。数字ではなく、人間の持つ華やかさや迫力を重視した育成論は、松井にも着実に浸透していく。

ミスターの想像を超えた松井の成長曲線

とはいえ、プロの世界は甘くない。1年目は57試合の出場で11本塁打にとどまり、周囲の期待と現実のギャップに苦しんだ。

さらに翌1994年には、当時現役最高の打者だった落合博満が中日ドラゴンズからFAで加入。松井の目の前に“完成された4番”が現れたことで、彼は3番に据えられ、学びの日々が続くことになる。

ただ、これは長嶋さんの計算もあっただろう。「背中を見て学べ」という教育方針のもと、松井は落合の打撃哲学、勝負勘、存在感を間近で体験し、自らの肥やしにしていった。

そして1996年、この年の7月、8月には月間MVPを連続受賞し、最終的には打率.314、38本塁打、99打点、OPS1.023という数字を記録。巨人が“メークドラマ”でリーグ優勝を果たす原動力となり、MVPにも輝く。

この時点で、松井は「4番候補」ではなく「真の4番」としての地位を確立していた。“4番1000日計画”の折り返し地点を、想像以上の速さで駆け上がっていたのである。

その後も松井は順調に成長を続ける。1997年には37本塁打・103打点、1998年には自身初の本塁打王・打点王のタイトルを獲得、1999年は初の40本塁打以上(42本塁打)を記録するなど、すでに押しも押されぬ巨人の中心選手となっていた。

しかし、それでも「4番」には定着しなかった。理由は、1997年に西武ライオンズからFAで移籍してきた清原和博や、ライバル高橋由伸の存在で、松井は再び3番に戻ることになる。それでも松井は腐らず、打撃で結果を残し続けた。

4番・松井はミスターが遺した最後の“芸術作品”

そして迎えた2000年。

長嶋監督は、ついに決断する。「4番松井」の復活だ。

これは、単なる打順の変更ではない。1993年から始まった「4番1000日計画」の集大成であり、長嶋さんが監督として最後に完成させた“超大作”だった。

この年の松井は、技術的にも一段と進化していた。「打球をボール1~2個分、前でさばく」ことを意識し、それまでファウルになっていた打球がスタンドに届くようになった。

打率.316、42本塁打、108打点、OPS1.092。堂々たる成績で2度目の打撃二冠とMVPを獲得し、正真正銘の「巨人の4番」となった。

そして、運命の日本シリーズ。対戦相手は福岡ダイエーホークス。王貞治監督率いるチームとの“ON対決”は、球界が待ち望んだ頂上決戦だった。

このシリーズでも松井は打率.381、3本塁打、8打点と圧倒的な存在感を放ち、シリーズMVPを獲得。

打撃だけでなく勝負強さ、精神的な柱としてもチームを牽引し、シリーズは巨人の4勝2敗で幕を閉じた。

この翌年のシーズンをもって、長嶋さんは監督を退任する。最後の采配、最後の優勝、そして最後の4番起用。そのすべてが、「松井秀喜という作品の完成」として結実した。

松井はその後、メジャーリーグに挑戦し、ヤンキースの主軸としてワールドシリーズ制覇に貢献するが、すべての原点はこの2000年、巨人の4番として完成された姿にある。

スターを育て、信じ抜き、最後に完成を見届ける――それが彼の野球人生の美学だった。「4番・松井秀喜」。それは長嶋茂雄さんという男が、日本プロ野球に遺した最高の芸術作品だった。

「今後、どう次の世代に継承していくか、ここではお話しできませんけど、長嶋監督と生前約束したこともありますので、その約束は果たしたいなと思ってます」

松井氏は囲み取材の終盤にこう語り、”長嶋イズム”の継承を誓った。

取材・文/ゴジキ

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