
巨人の監督を2期、通算15年にわたって務めた終身名誉監督の長嶋茂雄さんが6月3日午前6時39分、肺炎のため都内病院で亡くなった(享年89歳)。2022年に脳内に出血が見つかってからは入院しながら治療とリハビリを続けていたという。
ゴールデン対談「グランドの決闘」で金田正一さんと対談
『週刊明星』の創刊号(1958年7月27日号)では、ゴールデン対談「グランドの決闘」と称して、ナイター直後の金田正一さんと長嶋茂雄さんの豪華対談が5ページにわたって行なわれた。
当時、金田さんは国鉄(現・東京ヤクルトスワローズ)の鉄腕投手で、巨人入団直後の長嶋茂雄さんを“4打席連続三振”で封じるも、その後の試合でホームランを放たれるという“バッチバチ”状態。
対談はさぞかし緊張感漂うムードになるかと思いきや、意外にも二人の態度はくだけていた。
1958年4月5日に行われた国鉄vs巨人戦に3番サードで先発出場した長嶋さんは“4打席連続三振”した当時のことを、このように笑いながら話をしていた。
長嶋 いやあ、あのときは完全に敗けました。きっと一生忘れられないでしょうね。バッター・ボックスに立った、初球がきたでしょう、ハッとしましたね。そのときはもう空振り!(笑)
金田 ハッハッハ……(と、うれしそうに料理をつつく)
長嶋 ああいう、想像した以上の球の速さにぶつかったということは、開幕早々大変いい勉強になりましたね。ただスゴいなあ、というそれだけですよ。
金田 あのときは調子がよかったんだ、ワシは。
『週刊明星』1958年7月27日号(創刊号)より抜粋
記者からの「金田さんの投球を、いろいろ研究しましたか?」の問いに長嶋さんはこう答える。
長嶋 そりゃもう、研究したですよ。あらゆる面で研究したけれどバッター・ボックスにはいったらそうは当るものじゃないですよ。よほど自分が最高のコンディションのときか、金田さんの調子のわるいときでないと……。
記者 開幕のとき金田さんが言ってたでしょう。左右の動きには、長嶋さんはすごく耐えてゆけるけど、上下の動きには弱いというような……
金田 そんなこというたかな。
長嶋 実際そうだもの、ぼく。いまでも横の変化には動けるけど、縦の幅、あれは弱いですよ。まあ、なんといったって第一回戦でヒネられたときは、全然眠れなかったですね。でも、朝起きたときはもうサッパリしてました。これから出直そうと思って……
金田 しかしあとで見事に仇をとられた。(笑)とにかく天才だよ。よく研究してるし、考えること、やること、すべてちがうよ。ホームラン打たれたときは、やられたって思ったね。
『週刊明星』1957年7月27日号(創刊号)より抜粋
この後、金田さんは八丁味噌の味噌汁にご飯を入れてザブザブとかき混ぜて食べながら「あんた、やらないの。ワシはこれをやる。うまいぜ、やってみない?」と長嶋さんを誘うも、長嶋さんは「いや、結構です」ときっぱり断る様子が絶妙な対談であった。
引退発表から新監督就任…高倉健さんと初詣にのぞむ姿も
その後、プロ野球選手として打点王や新人王、最優秀選手など、さまざまな栄光の歴史を綴った長嶋さんは、1974年10月14日の中日戦が行なわれた後楽園球場(現・東京ドーム)で17年間の選手生活に終止符を打ち、引退を発表。
1974年10月27日号には、今も語り継がれる名言「わが巨人軍は永久に不滅です」とセレモニーで挨拶し、蛍の光のメロディーが流れる中、感極まってファンに初めての涙を見せた姿を捉えた写真も掲載された。
その後、休む間もなく同年11月21日には後楽園球場で記者会見が行われ、巨人軍の川上哲治監督の退任と長嶋新監督の就任が正式に発表された。
1975年1月19日号では、かねて交流のあった高倉健さんとともに、成田山で除夜の鐘を聞きながら初詣をする姿をキャッチ。高倉さんと長嶋さんの付き合いは深く、この時の初詣もなんと「10回目」だと報じられていた。
そこには、監督として初めて新年を迎える長嶋さんと、芸能生活20周年という節目を迎える高倉さんがそれぞれ新年に祈る姿があった。
また、1975年2月9日号では永久欠番となった背番号「3」ではなく、新監督として「90」を背負い、多摩川キャンプで選手らに指導する姿と、袴姿で「必勝」と書道する長嶋さんを捉えた。
これは監督就任の記者会見で長嶋さんが第一に口にした「クリーン・ベースボール」を、“誠実な野球”を通してファンにお返ししたいという思いを筆に託した力強いものだった。
ところ変わってキャンプ地密着レポートでは、長嶋新監督の姿や当時入団したばかりの定岡正二選手らを一目見ようと、約1万人ものファンが詰めかけた。
長嶋監督が自ら選手たちを指導するさまは、「長所を伸ばし障害を除く」ために誠心誠意込めて野球に打ち込む姿そのものだった。
監督退任後バラエティー番組にも出演し、新たなイメージも定着
時は流れ1981年1月11日・18日合併号では、第一次巨人監督退任後の長嶋さんの心境について、野球評論家の吉田憲生氏がこう綴っている。
《「男としてのけじめをつける」という言葉を残して、長島(原文ママ)は巨人を去った。
球団は重役として迎えようと躍起になっているが、長島には復帰の気持ちはさらさらないようだ。
(略)
長島は退団のいきさつについては「思ったより根が深かった」とひと言しかいわなかったが、これはシーズン中批判を浴びせつずけてきたOBが、長島の考えていたところより、もっと上の権力と結びついていたことを、知らされたからだろう。
(略)
では、これからどうするのか? 「いろいろお誘いを受けていますが、正月から、ぼつぼつゴルフをやったり、まず自分の時間をもち、何をやるかを決めるのはそのあとですね。今は白紙ですよ」ということだが、話しぶりから察すると「ここしばらくは、誰にも拘束されずに、自由な立ち場で、野球を見つめる」ことになりそうである。》
『週刊明星』1981年1月11日、18日合併号より抜粋
その言葉通り、自由の身になった長嶋さんは、この時期からスポーツ番組のみならずバラエティ番組にも出演するように。
独特のワードセンスや息子の“(長嶋)一茂を球場に置き去りにした”などの伝説が語られ、「面白いおじさん」のイメージも定着。
1981年1月25日号では、共にCM撮影のためにハワイを訪れていた王貞治さんと長嶋さんが、ひさびさの“ONコンビ”としてゴルフ場に並ぶ姿が見られた。
野球よりもゴルフの話で盛り上がり「長嶋さん、すごくいいみたいじゃないですか」と王さんが言えば、長嶋さんも「そうなんだよ。毎日ゴルフ、ゴルフさ。
高倉健さんをはじめ、銀幕スターの石原裕次郎さんとも親交の深かった長嶋さん。『週刊明星』での対談企画は複数回にわたり、1982年4月15日号では、元NHKアナウンサーの小川宏さんの冠ワイドショー番組『小川宏ショー』の最終回ゲストとして登場した石原裕次郎さんと長嶋茂雄さんの2ショットを捉えている。
石原さんは長嶋さんを“シゲ”と、長嶋さんは“裕次郎さん”と呼び合っている。
《「シゲがデビューしたのが33年、オレが31年。シゲが第1号ホームランを打ったときのバットがオレの家にあるんだ。家宝にしてるよ」と裕次郎。お互い青春時代に父を亡くし、かたや映画に、かたや野球へと突進していった。進む道は違っても、状況は似かよっていたのだ。「父の死水をとるとき、手を握ってくれて、やるなら日本一の選手になれ!と激励してくれたんです」と長島(原文ママ)。“日本一”を極めたふたりも、支えになってくれたカミさんの話になるとさかんにテレるだけ。スーパー・スターのウィークポイントは意外なところにあった。
》
『週刊明星』1982年4月15日号から抜粋
『週刊明星』は1991年に終刊したが、長嶋さんを最後に捉えたのが1988年2月4日号の田原俊彦さんとの対談だった。かねて長嶋ファンで「野球選手になりたかった」時もあったという田原さんの猛烈ラブコールにより実現した企画で、長嶋さんは「結局は人生は己のこと。自分自身がどういうスタンスで生きるかだから」と語っていた。
長嶋さんの葬儀や告別式は近親者のみで執り行なわれ、後日、お別れの会を開くという。いつの時代も紳士的で前向きで笑顔とユーモアのあった長嶋さん。ご冥福をお祈り申し上げます。
文/集英社オンライン編集部ニュース班