最近増えている、作品を批判するときに「共感できない」「エンパワーされない」と表現する人に言いたいこと 山内マリコ×吉田恵里香
最近増えている、作品を批判するときに「共感できない」「エンパワーされない」と表現する人に言いたいこと 山内マリコ×吉田恵里香

2012年のデビュー作『ここは退屈迎えに来て』以来、女性同士の友情や繫がりにフォーカスした物語を紡ぎ続けてきた山内マリコさんと、向田邦子賞を受賞した『恋せぬふたり』や、昨年国民的な反響を呼んだNHK連続テレビ小説『虎に翼』の脚本家として知られる吉田恵里香さん。ふたりがシスターフッドやフェミニズム、さらには吉田さんが現在執筆中の長編小説についての構想について語った(全3回の3回目)

もともとは小説家になりたかったんです(吉田)

――吉田さんも現在、長編小説を執筆中なんですよね。ドラマなどの映像作品とはまた違う、小説だからこそ描けるものというのも、実感されているのでしょうか。



吉田 小説は、物語の世界に入って著者の言葉を浴びたい人だけが手にとるもので、じっくり作品に向き合う時間をとらなくちゃいけないぶん、贅沢品になりつつあるのは悩ましいんだけど、そのぶん価値観や偏見にひびをいれてくれる、特別な一冊になる可能性も高いんですよね。

私はもともとは小説家になりたかったんです。脚本の仕事が楽しくなって本業になった後も、いずれ小説を書くときに生きるかもしれないという想いがありました。ですが、『恋せぬふたり』(2022年)というドラマの脚本と併せて小説も書かせてもらえるとなったとき、あまりに文章を書けなくなっている自分に衝撃を受けました。

小説の執筆は6、7年ぐらいブランクがあったんですが、こんなにも言葉が出てこなくて、どうしたらいいかわからなくなるものなんだなって。でも、考えてみればあたりまえですよね。同じ料理人だからって、ずっとお寿司を握っていた人がケーキをつくれるわけがない。

山内 ものすごーくわかります。私は小説修業がてら1年ほどライターをしていた時期があるのですが、無記名原稿だからとにかく主観を排したニュートラルな文章にしなくちゃいけなくて。

表現に自分の色が出るとノイズになってしまい、編集さんに片っ端からチェックされてしまう。だんだん適応して書けるようになりましたが、その代わり染み付いた無個性な書き方の癖を抜いて自分らしい表現を取り戻すのに、2年くらいかかりました。

吉田 そうなんですね。

『恋せぬふたり』は自分の書いた脚本をもとにしているから、まだ道筋を見つけやすかったというか、最終的に自分でも納得のできる文章を書けたんですけど、山内さんのおっしゃる、自分らしい表現がどういうものなのか改めて模索しているところです。

奇しくも、少し前に『にじゅうよんのひとみ』という2016年頃に書いた作品を文庫化するお話をいただいて。久々に読み直したら、我ながらめちゃくちゃいい文章を書いているんですよ。私の好きな、書きたい文章が並んでいて。今はどうあがいても書くことのできないその文章をどうすれば取り戻せるかなあと、うんうん唸ってます。

山内 取り戻そうとして当時の表現に固執すると、過去の自分を模倣するだけになってしまって、それはそれで壁を超えられなくなるんですよね。私は去年、デビュー作の『ここは退屈迎えに来て』を刊行して12年経ったこともあり、今の若い読者はひとまわりも昔の小説なんて手にとらないだろうからと、リブート版のつもりで『逃亡するガール』(2024年)を書きました。

そのとき意識していたのが、セルフリメイクではあっても自己模倣しないこと。自分がどういう作家なのか、もう一度デビュー作を書くつもりで出したら、けっこう評判がよくて。あ、こういうのが求められていたのかと。吉田さんもセルフリメイクくらいの気持ちで挑んだほうが、今の自分にぴったりの表現を見つけられるかもしれません。

吉田 ありがとうございます。
今はどうしようどうしようとそればっかりで、全然筆が進まなくて(笑)。プロットはすでに固まっていて、血縁の呪いを描きたいなと思っているんです。恋愛や結婚、子をなすことに、いまだに多くの人がとらわれているなって感じるし、人生をなんのために生きているのかと問われたとき、人が何を答えるのかということを軸に物語を探っていきたいと思っています。

山内 それこそ『恋せぬふたり』も、異性愛規範の呪いからどう脱するかということを描いていましたよね。私はアラサーのときに上野千鶴子さんの著作に出会ってバールで殴られたような衝撃を受けて(笑)、フェミニズムの本を通していろんなことが理論的に理解できるようになったんですが、吉田さんがこういったテーマに目覚めたきっかけはなんでしょう。ご自身の経験がもとになっていたりするんでしょうか。

吉田 私はどちらかというと、血縁関係には恵まれていて、仕事をするうえでも母に支えられているし、いまだによりどころにしている部分が大きいんです。だから、実をいうと二十代前半までは、家族の絆や愛情がいかに大事であるかということを、物語で描いてきました。

でも、そうやって自分にとって大事なことだけを美化していくと、とりこぼしてしまうものがたくさんあるんだなと気づいたんですよね。何かに大きな光を当てるということは、日の当たらない存在を生み出すということなんだなって。

山内 これが決定打だった、みたいなことは?

吉田 いえ、少しずつですね。でも、ずっと書き手としての自分は無個性で、作品に色がないなあと感じていたことは大きいです。

書きたいものを書いているのだから、自然と色はついてくるはずなのに、いつまでたっても無味無臭。なんでだろうって考えたとき、テーマを選択して書いているわけではないからだ、ということに気がついたんです。

家族の絆を描くにしても、ただ漠然といいものだと思っていただけで、広い世界を見て、いろんな選択肢があるなかで、この美しさを描くんだという覚悟があったわけではなかった。家族愛を一生書いていきたいのかと問われれば、そうではない。

私が書きたいのは、自分が母に対して感じているのと同じような、よりどころとしての安心感や、背中を押してくれるような励まし、冷たくなっていた心がわずかにあたたまるような瞬間なんだと気づいてから、少しずつ変わっていきましたね。むしろ、家族愛を高らかに掲げるのは違うのではないか、それによってこぼれ落ちてしまうものがあるんじゃないかと思うようにもなってきた。

山内 やはり作品を書くこと自体が自己発見なんですね。私も、小説家になりたい、いい小説を書きたい、でもいい小説ってどんなだ? というところから物事を掘り下げて考えるようになりました。小説を書いていなかったら、上野千鶴子さんの本にも辿り着かなかったかもしれないです。

山内 自分の個性が摑めたターニングポイントとなった作品はありますか?

吉田 セカンドライターとして入ったアニメ『DOUBLE DECKER! ダグ&キリル』(2018年)でしょうか。架空の都市を舞台に、とある薬物で凶暴化する人たちを取り締まる刑事たちを描いた物語で、どのエピソードでも通底するテーマや、物語の進行上、必ずおさえなくてはいけないポイントがありつつも、わりと自由にやらせてもらえることもあって。

あるとき、マニッシュな女の子がメインとなるエピソードで、同性愛やルッキズムにからむ話を書いたんです。

それを観た方々から、同性愛が物語のスパイスにされなくてうれしかった、という声が届いたんですよね。2018年ぐらいの話です。

山内 まだまだ同性愛者がマジカル扱いされることも多かった頃ですね。

吉田 当時なぜ自分がそれをできたかといえば、海外の連ドラをたくさん観るなかで、物語と社会問題を関連付けるのはあたりまえだということを学んでいたし、なにか問題が起きたときに親族間で解決させずに、公的な機関や第三者を頼ることも必要だという体感を得ていたからだなと思います。

アニメにかかわらず、エンタメと社会問題を切り離す必要はなくて、社会問題だからといってシリアスに、悲劇的に描く必要もない。そのバランスをとって物語を書くことができるかもしれない、と思えるようになったのは『DOUBLE DECKER!』のおかげです。

残念ながら、爆発的人気はでなかったのですが、コアなファンに愛されていて、やれるものなら続編をつくりたいと今でも思うくらい愛着があります。主人公がまた、魅力的なんですよね。

ものすごくフラットなまなざしで世界を見つめる彼を通じてだからこそ、理想的な優しい社会を描くこともできる。そのことに意義があるんだと『チェリまほ(30歳まで童貞だと魔法使いになれるらしい)』(2020年)あたりまでは考えていましたね。

山内 今は違うんですか?

吉田 これもまた難しい問題で、あまりに優しい世界を描くと、現実に起きている問題を解決しきれないまま、消費するだけで終わってしまう危険性があるなと。善人ばかりが暮らしているのが理想的な社会かといえばそうではないし、優しく美しい心をもった人間でありたいけど、なかなかそうはいかない側面も書かなきゃいけないと思うようになりました。


誰からも愛されるキャラクターを描きたい気持ちもありつつ、ダメなところがある人を描くことのほうに、今は意味を感じています。だから寅ちゃんも、一定の層には嫌われてしまうだろうとわかっていながら、失敗や矛盾をさらけだす人物として描きました。

完全無欠の高潔な人でなければ、声をあげちゃいけないなんてことはない。調子に乗るし、間違える、決して偉人ではない寅ちゃんだからこそ見せられるものもあるんじゃないかと思ったので。

山内 さっき吉田さんもおっしゃったように、小説は積極的に読みたいと思う人しか手にとらないのが実情です。私が『一心同体だった』を書いたときも、場合によっては炎上するかもなと思うような表現があったのですが、苦言を呈されることもなく、アンチが湧くこともなく、非常に平和な世界で読まれている感想ばかりでした。

でもそれってつまりは売れてない、狭い層にしか届いていないということなんですよね。対してドラマ、とくに朝ドラは、本当に幅広い年代や立場の人たちに観られているから、批判的な声もどうしたって大きくなってしまう。

吉田 世の中には、エンターテインメントを慈善活動みたいに思っている人もいて、『虎に翼』のシナリオ集を出したときも、「朝ドラを金もうけに使うな」って言われたんですよ。私はお金を稼ぐための生業として朝ドラの脚本を書いているのに(笑)。

たぶん、私が得している気配を感じると怒りが湧くんでしょうが、作品にこめたメッセージと私個人が日々主張したいことが必ずしも同一とは限らないし、私自身が正義で正解だとも思っていない。

ただ、物語を通じて、今、現実で起きている問題を私たちはどうとらえるべきなのか、どう向き合えばいいのかを、角度を変えながら探っていきたいです。



山内 社会問題をあまり取り込みすぎるとお説教になってしまうこともあって、さじ加減が難しいですよね。伝えたいことが山盛りすぎて全部のせすると、トゥーマッチになってしまう。面白さをキープしつつ問題提起もして……となると、それはそれで、モニターの意見を吸い上げて作った工業製品のような作品になってしまうし。

吉田 最近、作品を批判するときに「共感できない」と言う人が増えているように感じるのですが、同じように「エンパワーされない」と表現している人もちらほら見かけて。でもそれって、自分が気に食わなかっただけのことを、もっともらしく言い換えているだけなんじゃないかと思うんですよね。

共感もエンパワメントも本来は勝手に受け取るものであって、望むようにそれが描かれていないからといって、作品を断罪する武器のように扱うのはちょっと悲しいなと。100%の共感やエンパワメントがなくても作品を楽しむことはできるし、問題について一緒に考えることもできるはずなので。

山内 エンパワメントを尺度にされると厳しいですね(笑)。おっしゃる通り、受け取る側の感受性次第なので。作品が〝ノット・フォー・ミー〟であることと、正当な批評の線引きは難しいです。いろんなリアクションがありますが、作品は読者に届いてこそ。

先日、還暦を迎えるという女性が『一心同体だった』の熱烈な感想を語ってくれて、胸がいっぱいになりました。作品を書く側としては、ひたすら球を投げ続けるしかない。どう受け取られてもいちいち反論も言い訳もできない。

けど、時々そんなふうに、メッセージがストレートに伝わったことを実感できることもあって。シスターフッドやフェミニズムを必要とされている方に、ちゃんと届いた、自分はそれに貢献できたんだと思うと、やってきてよかったなぁとしみじみ思います。人によっては食傷気味かもしれませんが、手を替え品を替え、このテーマを書き続けますよ。

構成/立花もも 撮影/大槻志穂
(『すばる』2025年6月号より)

すばる 2025年6月号

すばる編集
最近増えている、作品を批判するときに「共感できない」「エンパワーされない」と表現する人に言いたいこと 山内マリコ×吉田恵里香
すばる 2025年6月号
2025/5/21,100円(税込)166ページISBN: -

【連載】
桐野夏生「聞こえたり聞こえなかったり」(4)

【小説】
上田岳弘「マンサ・ムーサ」

【小説短期集中掲載】
遠野遥「吸血鬼」(2)

【対談】
山内マリコ×吉田恵里香「シスターフッドのその先へ」

【特集:ハン・ガン 死と再生の文学】
斎藤真理子「「ごはん」から見えてくるハン・ガンの文学世界」
川村湊「漢江に注ぐ水流――ハン・ガンと「四・三事件」」
金ヨンロン「私はそれを見たいだろうか――ハン・ガン『別れを告げない』を読む」

【第十回渡辺淳一文学賞発表】
木下昌輝『愚道一休』

【第四十回詩歌文学館賞発表】
詩部門/中尾太一『フロム・ティンバーランド』
短歌部門/中根誠『鳥の声』
俳句部門/中村和弘『荊棘』

【連載】
山内マリコ、池澤夏樹、小川洋子、金原ひとみ、高山羽根子、松田青子、滝口悠生、鏡リュウジ×東畑開人、角幡唯介、赤坂憲雄、姜尚中、岸本佐知子×杉田比呂美、村井理子、渡邉裕規、岡野大嗣、安達茉莉子、小津夜景、高羽彩、朝吹真理子、辻山良雄、エリザベス・コール

【プレイヤード】
演劇、美術、映画、待川匙「読書日録」、本

【日日是好日】
鈴木ジェロニモ(3)

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