
ハリウッド映画はその全史において「女性嫌悪」が前面に押し出されている作品が多く挙げられる。日本で言えば、宮崎駿監督作品のような自立したヒロイン像も多々あるが、なぜハリウッド映画の女性像はかくも単一なのだろうか。
思想家・内田樹氏による初期の論考集を再編集した『新版 映画の構造分析』より一部抜粋してお届けする。〈全3回のうち1回目〉
ハリウッド映画における「女性嫌悪」
私はアメリカ文学にはとんと不案内であるが、ハリウッド映画はずいぶん見てきた。そして、ハリウッド映画がその全史を通じて強烈な女性嫌悪にドライブされているということについては深い確信を有している。これほど激しく女性を嫌い、呪い、その排除と死を願っている性文化を私は他に知らない。
私が最初にアメリカ映画の女性嫌悪に気づいたのはマイケル・ダグラスによってである。彼が出演する映画では、そのときどきにアメリカでいちばん人気のある女優が(実際に、あるいは社会的に)「抹殺される」。
これまで映画の中でマイケル・ダグラスが「殺した」のは、グレン・クローズ(『危険な情事』Fatal Attraction, 1987)、キャサリン・ターナー(『ローズ家の戦争』The War of the Roses, 1989)、シャロン・ストーン(『氷の微笑』Basic Instinct, 1992)、デミ・ムーア(『ディスクロージャー』Disclosure, 1994)、グウィネス・パルトロウ(『ダイヤルM』A Perfect Murder, 1998)などなど錚々たる顔ぶれである。
おそらく、この後も彼は当代の人気女優を次々と殺し続けるだろう。
私がマイケル・ダグラスの「悪だくみ」に気づいたのは、『ローズ家の戦争』を女友だちと見に行ったときである。映画館から出ると、彼女が青い顔をして「気分の悪い映画」と吐き捨てるように言った。そう言われてみると(夫婦が離婚後の財産分与をめぐって殺し合いをするという話なんだから)たしかに気分の悪い映画である。
マイケル・ダグラス映画では例外なく女性が「悪役」となり、主人公を誘惑し、その自己実現を妨害し、彼のたいせつにしているものを破壊し、彼のプライドをずたずたに切り裂き、そして、最後に怒りにかられた主人公によって「抹殺」される。
もちろん、このような「女性嫌悪」映画をフェミニストが看過するはずがない。
「『危険な情事』はまったく写実的な映画ではない。いくつかの比喩的な意味がこめられており、そのすべてが、伝統的な価値観を強化し、一世紀にわたる女性の戦いの成果である『自立した女性』の抹殺を正当化しようとする。この映画の表面的なメッセージは、『核家族の逆襲』である。力を合わせて行動する家族だけが、独身女性の破壊的な力に対して反撃することができるのだ、というわけだ。(…)ここでは殺人を犯すのは実際には女性である。もう、お分かりだろう、切り裂き映画に共通するテーマは『女性は、一見すると被害者のように見えるが、じつは加害者なのだ』というものだ。」(※1)
ここまで「手の内」が暴かれており、女性観客の圧倒的な排撃を受けながら(『危険な情事』は上映中止運動も行われた)、同じタイプの映画がどんどん作られ、ブロックバスター的な興行的成功を収めているということは、アメリカの男性が心の底から、確信犯的に、アメリカ女性を憎んでいるということを「事実」として受け容れない限り説明がつかないだろう。
宮崎アニメにおける女性像の革新
現に、同時期の日本映画やヨーロッパ映画にマイケル・ダグラス映画に類するものを探すことは困難である。
「女性が殺される」映画として、私が思い出せるのは『不夜城』(1998)だけである。この映画では、金城武が自分を裏切った山本未来を撃ち殺すラストシーンに「日本映画らしからぬ違和感」があったので、よく覚えている。ただし、監督は香港の李志毅。観客からの支持もあまりなかった。
80─90年代に限って言えば、日本ではあからさまに女性嫌悪的な映画で興行的に成功したものは存在しない。
宮崎の映画には、ハリウッドが量産している種類の定型的な「嫌悪される女性」は一人も登場しない(かろうじて『ルパン三世 カリオストロの城』の峰不二子がいるが、彼女は最初から最後まで、どんな男にも権威にも服しないスタンドアローンの「不死身」の女賊であり、その点ではハリウッド映画的ではない。『風の谷のナウシカ』のクシャナも、『もののけ姫』のエボシ御前も、「悪女」系のキャラクターではあるが、彼女たちは男に屈服しないし、最後に死ぬわけでもない。これではアメリカ的基準からする「いい女」には入らない(※2))。
宮崎アニメに見られるような女性キャラクターにハリウッド映画はほとんど興味を示さない。ハリウッドのフィルムメーカーは、情緒が安定しており、ユーモアと知性があり、包容力豊かで、映画の最後まで「一度も男性主人公を怒鳴りつけない」女性登場人物というものをおそらくうまく想像することができないのだ。
ここにはある種の強い心理的禁圧が働いていると見る他ない。この彼我の隔たりは決して過小評価できるものではないだろう。
マイケル・ダグラス映画の「異常さ」に気づいたのち、私はアメリカ男性の「民族史的奇習」と思われるこの女性嫌悪に対して、かなり分析的な態度をとるようになった。そして、さまざまな女性嫌悪ストーリーをチェックしているうちに、それがどのような説話原型を好むのか、ということがだんだんと分かってきた。
もっとも頻繁に反復される話型は次のようなものである。
(1)「男のテリトリー」に女性が侵入してくる。
(2)この女性は何らかの権威(地位、富、情報、そして一番多いのが「父親の権力」)ゆえに、参入を許されている。
(3)男(たち)はこのテリトリー侵犯を不快に感じるが、受け容れざるを得ない。
(4)この女性は男たちの世界の秩序を揺るがせる(しばしばこの女性は複数の男性にとっての欲望の対象となり、その競合の中で男たちの団結が破壊される)。
(5)男(たち)は団結して、女性を排除し、世界はふたたびもとの秩序を回復する。
例えば、マイケル・ダグラスの『ディスクロージャー』はデミ・ムーアの好演もあって、「女の憎々しさ」が鮮やかに映像化された「女性嫌悪映画の傑作」であるが、これはみごとにこの話型を定型通りになぞっている。
※1 ジョーン・スミス、『男はみんな女が嫌い』、鈴木晶訳、筑摩書房、1991年、47─49頁
※2 ジュディス・フェッタリーによれば「唯一のいい女とは死んだ女である」というのがアメリカ的物語の窮極のメッセージである。『抵抗する読者──フェミニストが読むアメリカ文学』、鵜殿えりか他訳、ユニテ、1994年、116頁
文/内田樹
新版 映画の構造分析
内田樹
『大脱走』の裏に隠された「父殺し」のドラマとは?
『エイリアン』が反映するのはフェミニズム的メッセージ?
映画に隠された驚くべき物語構造を読み解く、スクリーンから学べる現代思想、精神分析、ジェンダー。
大幅増補の決定版映画論。
物語には構造があり、映画にも構造がある。そして映画の構造を知ることが、人間の欲望の構造を知ることにつながる……。『エイリアン』『大脱走』『裏窓』などハリウッド映画の名作を題材にした映画論にして、ラカンやフーコーなど現代思想の入門テキストとして高い評価を受けた旧版『映画の構造分析』に、『君たちはどう生きるか』『ドライブ・マイ・カー』『怪物』『福田村事件』など、近年の話題作を分析した論考を大幅増補した決定版映画論。
解説=春日武彦。
「あらゆる芸術作品は、それについて語られた言葉をも含めてはじめて「作品」として成立していると僕は思っています。僕たちは作品について語ることを通じて、作品にある種の「付加価値」を付与している。(…)だからこそ、美術批評とか文芸批評という分野が存在しているわけです。さまざまな芸術活動の中でも、とりわけ映画は批評の占める割合が多いと僕は思います。(…)集団の創造という点で映画に匹敵するジャンルはありません。」(「あとがき」より)
【登場する作品】──『エイリアン』『大脱走』『北北西に進路を取れ』『ゴーストバスターズ』『裏窓』『秋刀魚の味』『私を野球につれてって』『ゴッドファーザー』『君たちはどう生きるか』『ドライブ・マイ・カー』『ハウルの動く城』『怪物』『福田村事件』『愛の不時着』『秋日和』『三島由紀夫VS東大全共闘』…