
「歴代最高のバチェラーが来る」――そうして迎えた『バチェラー・ジャパン』シーズン6だが、視聴者からの評価はシリーズ史上最低を記録している。7話までの段階で、今作が“失敗”だったといわれる要因はどこにあったのだろうか。
過去最低評価となった「バチェラー6」
6月19日20時に最終回が配信される『バチェラー・ジャパン』シーズン6。しかし、6月18日時点でのAmazonプライム・ビデオでの評価は「2.2」と、シリーズ史上最低を記録している。
参考までに、過去シーズンの平均評価はシーズン1が「3.5」、2が「4.1」、3が「4.0」、4が「3.2」、5が「3.7」。こうして数字を並べてみても、今作が際立って不評であることがわかる。
いったい、なぜここまで評価が下がってしまったのか。
放送前、SNSにはバチェラー・久次米一輝(くじめ・かずき)に対する期待の声があふれていた。端正な顔立ちの現役医師であり、父は大手美容外科「共立美容外科」の理事長。さらに、海外留学経験もあり英語堪能、趣味はゴルフにトライアスロン──久次米氏は“理想のバチェラー像”を体現した存在だった。
公式も彼を“令和のリアルな王子様”“すべてを備えたバチェラー”として盛大にアピール。視聴者からも「過去イチで楽しみ」「完璧すぎる」と期待の声が続出していた。
しかし、配信が始まると、コアなファン層から徐々に違和感の声があがり始める。今作は、これまでのシリーズとは何かが決定的に違う――その原因は、大きく三つに分けて考えられる。
まず一つ目は、出演者たちの“炎上回避”の姿勢だ。
『バチェラー』シリーズでは、参加女性が出演をきっかけに注目を集め、インフルエンサーやタレントとして飛躍する例が少なくない。そのためか、参加者たちは番組内の展開よりも「視聴者からどう見られるか」を強く意識しているように見える。
過去作では、嫉妬や衝突、葛藤があり、恋愛の熱狂とともに生々しい“感情”が描かれてきた。しかし今作では、泣く・怒る・揉める・騙すといった“むき出しの場面”がほとんどない。まるで感情が削ぎ落とされたまま、進行していくのだ。
とりわけ象徴的だったのが、“シンデレラローズ”をめぐる場面だ。このローズは、使用者がバチェラーとの2ショットデートに進める反面、12時までにローズをもらえないと即、脱落となる、いわばハイリスク・ハイリターンの特権。
過去シリーズでは、こうした特殊なローズを誰が使うかを巡って参加者同士の対立や号泣が起き、その中でドラマが生まれ、時に友情が芽生える展開すらあった。
だが、今回は驚くほどあっさりと使用者が決まり、わずかな形式的やりとりはあったものの、感情のぶつかり合いは皆無。その後の展開も特に盛り上がることなく、ダイジェストのような扱いで終わってしまった。
炎上回避で刺激がなくなったリアリティーショー
こうしたドラマ性のなさを、出演者たちのせいだけにするのは早計かもしれない。もう一つの要因として浮かび上がるのが、制作側の“演出の自粛”だ。
近年、恋愛リアリティショーを取り巻く環境は厳しさを増している。
とはいえ、今作の編集はあまりに抑制的だった。誰にもスポットが当たらず、淡々とシーンが積み重ねられていくだけ。視聴者は「誰の物語として見るべきか」が分からず、感情の軸を持てないまま時間が過ぎていった。
MC陣のコメントも一様に穏やかで、刺激に欠ける。ドラマ的な“山場”も“炎上回”も用意されておらず、緊張感もカタルシスも感じられない。かつてのシリーズにあったような“乗り越えるべき壁”が、今回は存在しなかったのだ。
だが今作は、どのように編集しても盛り上がらなかったかもしれない。それが三つ目の要因、そして最も根本的な問題「バチェラーがあまりにも優位すぎた」という構造だ。
今作では、女性たちは「久次米一輝がバチェラーである」と知ったうえで参加している。シリーズでは、バチェラーの事前公開があるパターンと、そうでないパターンがある。
事前公開のメリットは、参加者が本気で“彼を落としにいく”姿勢を持てる点にある。過去には、バチェラーやバチェロレッテ(男女逆転版)に恋することができず、リタイアしたり、熱意に欠けたまま過ごす参加者もいた。その反省を踏まえ、今回は「本気で結ばれたい人」だけを集めた、という制作側の意図は理解できる。
だがその結果、物語は「一方的に追う女性たち」と「選ぶバチェラー」という固定された構図から一度も外れることがなかった。
バチェラーに疑念を抱く者も、翻弄する者もいない。久次米氏は終始、参加者女性にアイドルのように持ち上げられ、明確な上下関係のなかで“選ぶ側”に徹していた。その構図はまるで就活の面接官と応募者のようで、恋愛というよりも“選考会”のような空気が漂っていた。
淡々とした空気が生まれた最大の要因
久次米氏が誰かに惹かれて葛藤する「追う側」にまわる場面は、7話までほとんどなかった。視聴者が心を動かされるのは、バチェラーが本気で心を奪われ、自信を失い、迷い、決断する過程にある。そこに人間らしさが宿り、恋愛番組としてのリアリティが生まれる。
しかし今作では、そうした感情のうねりや変化が乏しかった。久次米氏は終始淡々とジャッジを続け、参加者たちも自らを“選んでもらう”ことに終始していた。
その結果、誰かを落とすときに葛藤し、涙を見せる場面すら生まれなかった。
こうして参加者だけでなく、バチェラー自身にも明確な「成長」の物語は生まれなかった。シリーズの魅力は、恋愛を通じて人間関係が変化し、登場人物たちが何かを得て変わっていく姿にある。だが今回は、その核となる“関係性のドラマ”自体が存在しなかった。
まるで就職面接のように、候補者を評価し、静かに落としていく――。恋愛よりも「選考」に近い、温かみに欠ける空気が画面に流れていた。
その意味でシーズン6は、「炎上もせず、波風も立たず、恋も盛り上がらず」、整いすぎたがゆえに、ともすれば“何も残らない”と感じさせるシリーズとなった。
バチェラーは、恋愛を扱うと同時に“番組”というエンタメ作品でもある。リスクをはらんだ“むきだしの感情”があってこそ、フィクションを超えるリアリティが生まれるはずだ。
番組が再び信頼を取り戻すために必要なことは、無難な整合性を求めることではなく、“炎上も含めて愛される”覚悟なのかもしれない。
取材・文/ライター神山