〈芸能生活40年〉中山秀征、年を重ねても「ヒデちゃん」と呼ばれたい理由…近所の頼れるお兄ちゃんキャラで昭和・平成・令和を生き抜いた芸能生活の転機
〈芸能生活40年〉中山秀征、年を重ねても「ヒデちゃん」と呼ばれたい理由…近所の頼れるお兄ちゃんキャラで昭和・平成・令和を生き抜いた芸能生活の転機

昭和・平成・令和――3つの時代を駆け抜け、今年、芸能生活40周年を迎えた中山秀征(57)。デビューして以降、俳優、歌手、司会者、タレントとして第一線で走り続け、近年では書家としても新たな才能を発揮している。

その背景にあるのは、変化を恐れず、挑戦を楽しむ姿勢と、家庭や人との関わりから得た深い気づきだった――。(前後編の前編) 

芸歴40周年「一言では表せない」

先月、自身初となるビジネスエッセイ『気くばりのススメ』(すばる舎)を上梓しました。人付き合いに悩む現代人に向けて、40年間の芸能生活で培った“人に寄り添う力”をやさしく、ユーモアを交えて綴っている。

“ヒデちゃん”の愛称で長年親しまれながら、実直に芸と向き合ってきた中山秀征が語る、これまでの歩みと、これからの挑戦とは。

芸能生活40周年を迎えた率直な感想を聞くと、どこか考え深げに口をひらいた。

「あっという間といえばあっという間、だけど地道だと感じる時もあったし、一言では表せないですね。昭和の後半にデビューして、平成でいろんなことが変化し、令和になって…。テレビの内容や表現方法も随分変わったと思います。そんななかでタレントをやって来れたのはすごく面白かったし、ありがたく感じますね」(中山秀征、以下同)

時代とともに価値観もめまぐるしく変わっていく。昭和・平成・令和という三つの時代を生き抜いてきたからこそ感じる、今昔のテレビについてこう話す。

「昔のテレビが良かったって言う人もいるけど全部良かったわけではない。いいものもあったけどダメなものはダメだし、つまらないものはつまらなかった。ただ、昭和という時代は前例がないことをやってきた時代なので、歴史を切り拓くことはできたかなと思います」

時代の変化に順応してこれたのは芸能生活だけでなく、家族との関係性が大きく影響しているとか。



「30歳で結婚し、妻と生活を始めたことによって変化していきました。それまでは自分の感覚だけで生きていたけど、誰かと生活することの難しさを知って変わった部分ってあるんですよね」

多くの出会いで変わっていった価値観

妻との印象的なエピソード、「醤油事件」について話してくれた。

「結婚当初、妻が作ってくれた料理に全部醤油をかけちゃってたんです。僕は群馬出身で、僕の田舎では出された料理に醤油をかけて食べるのが普通だったんです。むしろ、醤油をかけたほうが美味しいので、かけて”あげる”という感覚。ある時、出し巻き卵や漬け物や塩鮭など食卓の料理に醤油をかけたら、きゃーって叫ばれて(笑)。

この時、自分が正しいと思っている、良かれと思っていることが、決して相手の正しいことではないと知りましたね」

レコード大賞の司会、ドラマの主役。歌手活動。自分が描いたものは30歳までに全部やってきた。独身時代は自分のビジョンしかなかったけれど、結婚生活を過ごすなかでさまざまな価値観が変わっていく。

「今までは芸能人・中山秀征として、生活をしていたけれど、子どもが生まれるごとに変わっていきましたね。子どもを通して、学校の先生や、地域の人たち、ママ友やパパ友など関わる人も増えていった。

だからか悩み相談の回答も変わっていきました。

自分だけの意見じゃなくて、世間はどういう風に考えてるんだろうという目線で見れるようになったのだと思います」

”ヒデちゃん”という愛称で多くの人から親しまれている中山。『THE夜もヒッパレ』(日本テレビ系)では、芸能活動を引退した安室奈美恵からも「ヒデちゃん」と慕われていたのだとか。本人はそのことについてどのように思っているのか。

「いやー、すごく嬉しいよね。あの番組がスタートしたのは30年前だけど、安室ちゃんや、MAX、知念里奈ちゃんとか。みんなが『ヒデちゃん、ヒデちゃん」って呼んでくれて。わかんないことは全部ヒデちゃんに任せればいいやーて感じでしたよ(笑)。

当時は27歳ぐらいだから、みんなにとっては近所の頼れるお兄ちゃんみたいな存在だったんじゃないかな」

頬を緩めながら当時を懐かしむ中山。しかし本人の意思とは反対に、「ヒデちゃん」と呼ばれることに不信感をもっていた人もいたそうだ。

「MCになっていくと『ヒデさんや中山さんって呼ばせたほうがいいんじゃないか』って言う人も出てくるんですよね。『いつまでもヒデちゃんって言われてるようだから中山は軽いんだよ』って言われたりもしてました。親しみやすい愛称で呼ばれないほうが、タレントとしての格が上がるんじゃないかと……。


ただ僕は全くそう思わなくて、ヒデちゃんと呼ばれるほうがやりやすかった。街歩きロケなんかやってると、『ヒデちゃんー!』って子どもから大人まで、いろんな人が声をかけてくれる。そういう距離感のほうが僕には馴染むというか、やりやすかったと思いますね』

「俺なんてってまず思っちゃいけないですよね」

そんな中山が近年、芸能の仕事と並行して精力的に取り組んでいるのが“書道”だ。実は10代の頃に親しんでいたものの、忙しさもあって離れていた。50歳を目前にして「もう一度、筆を持とう」と決意した理由を聞いた。

「両親が数年前に亡くなって、その頃にこれまでやってきたことをやり直そうと思ったんです。書道は小学校からやっていたんですけど、50歳ぐらいの時からまた始めました。

ただタレントがそこそこうまいっていうレベルでは満足しなかったので、プロが見ても唸る作品を作りたいと思ったんです」

横浜国立大学教授で書家の青山浩之氏に指導を受けながら一般部門で作品を出し続けた。毎日新聞や、国立新美術館の独立書展。佳作を取ったりもしながら、何年も地道に続けていった矢先、去年初の個展を開くことに。

「去年、初めて群馬で個展をやって31点の作品を展示させてもらいました。お客さんも3万2000人ぐらい来てくださったんです。

それで、今年もやるぞってことで夏に銀座でやるんですけど、その前に『海外でやりませんか』っていう話があって、正直ドッキリなんじゃないかと思いました」

運命を切り拓いたのは、とある一人の男だった。

「40年前に下宿先で一緒だった赤松裕介君という、放送作家志望の子がいたんです。それまでは東京で活躍していたんですけど、25年ぐらい前パリに渡ってデジタルアート作家に転身したんですよね。

それから、向こうではすごい評価をされてたらしく。去年の暮れに、共通の知り合いから話を聞いてじゃあちょっと電話してみようってことで、約40年ぶりぐらいに話したんです」

久しぶりの電話にふたりは大いに盛り上がった。お互いの近況を話したところ、相手は書道のことを知ってくれていたそうだ。

「そしたら『今度一緒にやりましょうよ!」という話になったんです。普通日本でやると思うじゃないですか。そしたら「カンヌでやりましょう」って言うんですよ。あまりに信じられなくて、途中まで騙されてんじゃないかと思ってました。

なので契約書を書くまでは、なかなか発表できなかったですよね(笑)」

今年の5月にカンヌ国際映画祭に無事展示することができた。今後も引き続き海外に目を向けているという。


「やっぱり海外には目を向けてますね。書道でアメリカでもヨーロッパでも、いろんなところに行ってみたい。テレビの司会という仕事も書道も歌も、本の出版もそうだけど、チャンスがあれば、どんどん続けていきたいとは思ってます。俺なんてってまず思っちゃいけないですよね。やりたいことは恥ずかしがらずに言っていく。

前向きにいろんなことにチャレンジしていく――。それこそが元気でいる秘訣かもしれないですね。もともとそういうところはあったけど、今後はスケールをより大きくしていきたいなって思ってます」

今、彼は再び夢の続きを描こうとしている。新たな挑戦を前に見せたその笑顔の奥に、言葉にしきれない軌跡が宿っていた。

後編を読む

取材・文/桃沢もちこ 撮影/齋藤周造

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