サザンオールスターズをブレイクに導いたのは“元キャンディーズのマネージャー”…デビュー曲『勝手にシンドバッド』を国民的ヒットに導いた男の戦略とは
サザンオールスターズをブレイクに導いたのは“元キャンディーズのマネージャー”…デビュー曲『勝手にシンドバッド』を国民的ヒットに導いた男の戦略とは

先月の29日に6年ぶりの全国ツアーを完走した国民的バンドのサザンオールスターズ。47年前の1978年6月25日に『勝手にシンドバッド』でデビューした彼らだが、そのブレイクは偶然ではなかった。

 

それまで誰も聴いたことがないタイプの日本語ロック

1978年6月9日のこと。ラジオ番組『甲斐よしひろの若いこだま』(NHK-FM)では、“ロックの日”と称して「夏よ来い!ロックンロール大特集」がオンエアされた。

DJを務めていた甲斐よしひろは、その夜の最後に「これは絶対売れる! この曲が流行んなきゃ、甲斐バンドも流行んないかもしれない」と、かなり力を込めた調子でサザンオールスターズのデビューシングル『勝手にシンドバッド』を紹介した。

まだデビュー前の新人バンドが持っていたとてつもないポテンシャルを、同じロックミュージシャンとして強く感じていたのが明らかだった。

勢いよく「♪ラララ」というコーラスから始まったアップテンポの曲は、それまで誰も聴いたことがないタイプの日本語ロックであった。

一聴しただけでは歌詞の意味はまったく不明。真面目なのか冗談なのか、ふざけているだけなのか。歌詞カードを見なければまるでわけがわからない、否、見てもよくわからないその変な歌は、リスナーをただ驚かせただけに終わらなかった。

ぶっ飛んでいて理解不能であるがゆえの魅力と、音楽的にも斬新そのものだったことから、圧倒的なインパクトを与えたのである。6月25日の発売前だったのに、リスナーからの反響は大きかった。

サンバ風のパーカッシブなロックサウンドには、ファンクとソウルの要素が埋め込まれていた。しかもタイトルが前年に大ヒットした沢田研二の『勝手にしやがれ』と、ピンク・レディーの『渚のシンドバッド』からきていたように、バックグラウンドには歌謡曲のテイストも感じられた。

桑田佳祐によれば、『勝手にシンドバッド』の原型は、ザ・ピーナッツのヒット曲『恋のバカンス』のようなものだったらしい。

あえて歌謡曲を意識して作ったのだという。

「勝手にシンドバット」というのは、売れる売れないっていうんじゃなくて、自信作だった。作ったのは1977年かな。アマチュア時代にも歌ってた。もっとテンポ遅かったけど。何かロックを歌謡曲のレベルまで引き下げて歌いたいっていう願望が強くあった。所詮、日本人ってのは歌謡曲だから。

最初に曲を作ってバンドメンバーのところへ持っていった時は、歌謡曲的なテイストのせいか、「冗談じゃないよ」という感じで嫌がられたらしい。

だが、1977年にヤマハが主催するコンテスト「イースト・アンド・ウェスト」で、サザンオールスターズはビクターのディレクターだった高垣健の目と耳にとまって、レコードデビューにつながった。

あまりの早口で、日本語なのに歌詞がテロップで流れた

ただし、『勝手にシンドバッド』はすんなりとデビュー曲に選ばれたわけではない。

デビューシングルを『勝手にシンドバッド』で出したい桑田佳祐と、『別れ話は最後に』を推す高垣の意見が折り合わず、話し合いが持たれた。

その時に決め手となったのは、所属していた事務所の社長である大里洋吉の判断だった。

サザンオールスターズはレコード会社からのデビューが決まりかけたところで、キャンデーズのマネージャーだった大里が前年に設立した新しい事務所「アミューズ」に所属していた。

6月25日に発売された『勝手にシンドバット』は、チャートでは初登場132位だった。甲斐よしひろは7月7日、再びラジオ「若いこだま」でオンエアしてプッシュした。

そして7月23日、甲斐バンドが日比谷野外音楽堂で開催したコンサートに、サザンオールスターズがオープニングアクトとして出演した。短い時間ながらもライブは大好評だった。

さらに記念すべき初めてのテレビ出演は7月31日、歌番組『夜のヒットスタジオ』(フジテレビ)である。

バンドのメンバーはタンクトップとジョギングパンツ姿で、リオのカーニバルのダンサーたちをバックに熱唱した。あまりの早口で歌詞が聞き取れない多くの視聴者のために、その日は日本語なのに歌詞がテロップで流れた。

学生バンドらしくアマチュアっぽいルックス、歌詞の字面を追ってもほとんど意味不明の日本語、それまでとはまったく異なるタイプのバンドは大きな反響を呼んだ。

当時はほとんどのロックバンドがテレビとは無縁で、声が掛かっても背を向けていた時代だった。だが「日本人は歌謡曲」だと思っていたので、彼らは積極的に出演するようになった。

このあたりからレコードの動きが、少しずつ良くなってきた。そして決定打となったのが、その年から始まった人気音楽番組『ザ・ベストテン』(TBS)への出演で、それを可能にしたのは大里のアイデアだった。

1978年1月から始まったランキング・スタイルの歌番組『ザ・ベストテン』が、放送時間にスタジオに来られなければ、歌手がいる場所にまで中継車を出して現地から生放送するという、それまでにない斬新な内容で視聴率はうなぎのぼりとなった。黒柳徹子と久米宏が司会をするのも新鮮だった。

番組独自の集計による『ザ・ベストテン』のチャートは、レコードの売上だけでなく有線放送やラジオのオンエア回数、それに番組の視聴者からのリクエストはがきで作られている。

レコードの売上は操作できないが、有線放送やラジオのオンエア回数ならば、人海戦術である程度まで押し上げることができる。リクエストはがきをアルバイトに書かせることも考えられたが、事務所やレコード会社の大量投票は不正とみなされるとハネられてしまう。

そこで大里は日本全国のイベンターに、有線放送やはがきでラジオ番組にリクエストを出すように応援を求めた。

甲斐バンドの日比谷野外音楽堂のコンサートでオープニングアクトに出たサザンオールスターズを見て、将来性に注目していたイベンターたちはブレイクを見込んで結束した。

さっそくリクエストはがきで協力しただけでなく、秋の学園祭にブッキングすべく、各地の学生たちに売り込んだのである。

「ただの目立ちたがり屋の芸人で~す」

レコードの売上が増えてチャートが上昇し、出演のめどが立ったところで、大里は『ザ・ベストテン』のスタッフにライブハウスからの中継というアイデアを提案する。現在と違って、その当時はまだライブハウスというものが、東京や大阪などの都会にできたばかりでもの珍しかった。

そして8月31日、1976年にできた「新宿ロフト」からの中継が始まった。ぎゅうぎゅう詰めの観客に囲まれて、店内の中央にある巨大な潜水艦のオブジェの甲板上に立っているバンドに、視聴者はまず驚かされた。

超満員の客を相手にライブを終えた直後だったので、女性の原由子を除いてメンバーたちはジョギングパンツに上半身裸という姿だ。スタジオにいるきらびやかな芸能人たちとは、対極にあることが誰の目にもはっきりとわかった。

司会の黒柳徹子が「急上昇で有名におなりですが、あなたたちはアーティストになりたいのですか?」と訊いた。それに対して桑田佳祐が「いいえー、ただの目立ちたがり屋の芸人で~す」と答える。そんなやりとりからは、現役の学生バンドらしい清々しさも伝わってきた。

「♪ラーラーラー、ラララ、ラーラーラー」

ところが、歌が始まると日本語か英語かわからない、桑田佳祐の歌いっぷりに視聴者は衝撃を受けることになる。持ち時間が2分しかなかったので、レコードのテンポよりもかなり早い『勝手にシンドバッド』だったから、異常なまでのハイテンションだった。

たくさんの視聴者に、“わけのわからないもの”に出会ってしまったという興奮を与えたのだ。とりわけ小中学生たちの間では、翌日から日本全国のあちらこちらで「サザンオールスターズ」がクラスの話題になった。こうしてまずテレビを通じて、若年層のファンの心を掴んでいったのである。

9月21日に9位にまで上昇してベストテン入りを果たした『勝手にシンドバッド』は、11月30日まで2か月以上もランクインし続けて大ヒットになった。

でも、まさかベストテンとか、テレビ番組に出て悩むとは思ってなかった。

だから、あくまでもシャレとして「勝手にシンドバッド」出しといて、実際はリトル・フィート演ってるんだよ、みたいな、そういう浅はかな戦略的イメージしか持ってなかった時だから。ところが、そのテレビとか出ちゃったことがね、人生変えちゃったのね。

ベストテン入りしてからのサザンオールスターズは、たびたびスタジオでも演奏を披露したが、テレビという華やかでゴージャスな虚構の世界にあって、素人っぽさが浮いている気さくなロックバンドとして妙にハマった。

初めのうちはコミックバンドのようにみなされていたが、テレビ出演を嫌がらないロックバンドとして認知されて、特に子どもたちの人気者になった。

それまでのロック・ミュージシャンとテレビとの関係を変えたという意味で、サザンオールスターズはまさに画期的なアーティストとして、凄まじい勢いで成長していく。

文/佐藤剛 編集/TAP the POP 

引用
「ブルー・ノート・スケール 」 (桑田佳祐著/ロッキング・オン)

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