
1997年、国民的人気番組「笑っていいとも!」に、突然現れた一人の青年。ドレッドヘアに当時珍しかった“ガングロギャル男”スタイルで「いいとも青年隊」として登場した彼の名は、岸田健作。
「いいとも!」はタモリさんの事務所からの逆オファー
──芸能界入りのきっかけは、本当に偶然だったそうですね。
岸田健作(以下、岸田) 高校時代、仲間とダンスチームを組んでいて、卒業式前に六本木で開かれたコンテストに出るため、会場へ向かうエレベーターに乗っていたら、なんとそこにタモリさんが乗ってきたんです。
テレビに出てた人がいきなり目の前に現れたものだから、ついついテンションが上がってしまって。「うわ!超タモリじゃん!?」って仲間と盛り上がっていたんです。
そしたらコンテストが終わったあと、スタッフの方が「さっきの子たちどこ行った?」って探してて。「ヤベ!さっき騒いでたの絶対聞こえてたから怒られる!」と思って焦っていたら、「いいとも青年隊って知ってる?芸能界に興味あるかな」って声をかけられたんですよ。
──まさかの、タモリさんの事務所からの逆オファーだったのですね。そこからすぐにいいとも青年隊へ?
岸田 それが、当時はちょっとイキってまして。『芸能界とか興味ねーし!オレらはマライヤ・キャリーのバックダンサー目指してるから。タモリのバックじゃ踊れねーよ!』って断ったんです。
でも、『気が変わったら連絡して』と、事務所の方から名刺をもらって。
翌日、事務所に『すいません、やっぱりお話聞かせてください』ってアポを取ったんです。ただ、原宿の竹下通りで待ち合わせしたんですけど寝坊してしまって、なんと5時間も遅刻してしまったんです。
あわてて事務所の方に電話をしたら『まだ待ってるよ』って言ってくれて。その時、『君、遅刻グセある?』と聞かれて、『はい、校内一の遅刻王でした』って正直に答えたら、そしたら『それ、直せる? それがいいとも青年隊に入る上で絶対条件だから』って言われました。
──「笑っていいとも!」は生放送ですからね。
岸田「月曜から金曜までだよ、遅刻したらアウトだから」と言われて、それまで夜遊びもガンガンしていたけど、一切やめました。そこから3年間、番組には一度も遅刻しませんでした。
ギャングに拉致され「ウキウキウォッチング踊れ!」
──当時は見た目もかなりインパクトがありました。
岸田 当時、いいとも青年隊はアイドルのイメージだったので、自分のようにガングロにドレッドヘアーのいわゆるギャル男はいなかったんです。髪型を変えたり、色を白くしないといけないのかな、と思っていましたが、まさかのそのままの出演でした。
当時ドレッドヘアのメンテナンスは難しくて、髪は1年に一回しか洗ってなかったんです。そしたらタモリさんが生放送中に『お前、頭くせーよ!』ってツッコんでくれて。
──岸田さんといえば、ゆっくりしゃべる天然キャラで、いつもレギュラーメンバーやタモリさんからつっこまれているイメージでした。あれはキャラだったのでしょうか。
岸田 いえ、あれは完全に素の自分でした。当時はテレビのルールや尺など何も知らない素人だったので、丁寧に読もう!と緊張してああなってしまったんです。時間内に何かを読み上げなければいけない、という経験もなかったので、もしあのまま社会に出ていたら生きていけなかったでしょうね。
──いいともで大ブレイクして、逆に困ったことはありましたか。
岸田 繁華街で1人でご飯を食べていたら、黒塗りの高級車からいきなり、カラーギャングっていう90年代に幅をきかせていた不良グループが出てきて、『おい、コラいいとも!お前ちょっと来い』と連れ去られたんです。
何をされるのかと思ったら車の中で突然、ギャングに『今からウキウキウォッチング踊れ!』と言われて。それで『お昼~休みは~ウキウキ~♪』って、ギャングたちの低い歌声と手拍子で踊らされたんです(苦笑)。あれほどウキウキしないダンスはありませんでした。
その後も、『携帯出せ。
田んぼと倉庫しかない場所におろされ、なんとかコンビニを見つけて駅までの道を聞いて自力で帰りましたが、あれは怖かったですね。
──ギャングにさらわれるほど顔が知られてしまったと。そうなると、当時の最高月収はすごい金額だったのでは。
岸田 最高月収はサラリーマンの方の初任給ほどでした。芸能界は自分の実力ではなく、周りの方がお膳立てをしてくれたからこそやっていけたと思っているので、もし身の丈に合わない金額をもらっていたら再起できなかったかもしれない。金銭感覚がバグることがなかったのは、当時の事務所のおかげと今も感謝しています。
芸能界から姿を消した理由
──今では恋愛禁止が暗黙の了解のようになっていますが、当時恋愛はされていましたか。
岸田 自分はアイドルでもないし、特に恋愛禁止ではなかったです。でも当時は彼女はいなかったですね。いいとも青年隊をやっているから遊ぶ時間もなかったですし、芸能界は毎日が新しい発見で、仕事のことで頭がいっぱいでした。
今も独身で、結婚願望はありますが、音楽活動をしているので、実際一番大切なのはファンの方なんです。もういい年だけど、死ぬような思いをしてみつけたやりたいことが音楽で、それをずっと近くで応援してくれたのがファンの方なので、もしモテるとしたらファンの方からモテたいですね。
── 「いいとも!」でブレイクした後は、ドラマやバラエティー番組にも多く出演されていました。ピーク時のスケジュールはどのようなものでしたか。
岸田 よく、寝る間もないほど忙しいとか聞くんですが、僕の場合はとにかく、いいともが最優先でした。
事務所が無理ないスケジュールにしてくれていたので、いいとも青年隊として3年、その後、月曜レギュラーもやらせていただいて。ドラマ、ラジオ、バラエティーにも出させていただきましたが、深夜までとかもなく、普通に夜には家に帰れていましたね。
── ある時期を境に突然、芸能界から姿を消したのはどうしてですか?
岸田 あの時は、とくにやりたいことがあって芸能界に入ったわけではなかったんですよね。スカウトされて芸能界に入り、今まで自分が選んだ道を歩まなかったことをずっと心のどこかで、『このままでいいのか?』って思っていて。
周りはお笑い、音楽、演技で勝負してる人たちばかり。でも僕には“これなら誰にも負けない”って武器がなかった。ちゃんと自分でゼロから何かを始めてみたくなったんです。
一度全てリセットしよう、と思って、いったんすべての活動を全て休止したんです。
活動休止後、彼が選んだ道はまさかの…
後編 「笑っていいとも!」で大ブレイクもその後、ホームレスに…現在は町おこしをプロデュースする元“いいとも青年隊”岸田健作の波乱万丈人生 に続く
取材・文/佐藤ちひろ