
大谷翔平の活躍に沸く、MLBそしてロサンゼルス・ドジャース。野球はかつて「アメリカ最後のお手頃観戦スポーツ」だったが、今や家族4人でのドジャースの試合の観戦には平均400ドル近くかかるという。
在ロス広告代理店「MIW」社長の岩瀬昌美氏が、華やかな大谷選手の活躍の裏側にある、アメリカの厳しい現実を自身の体験を交えてレポートする本稿は岩瀬昌美氏著『大谷マーケティング』(星海社新書)より一部抜粋、再編集してお届けする。
野球観戦だけで14万円を超えてしまうなんて…
この本を書いている最中の2025年4月も私は大谷のボブルヘッドデーに行ってきました。大谷首振り人形の争奪戦のため、そしてマーケティング調査のため、クライアントへの手土産のため、体を張って行ってきました。
首振り人形を配布する試合にいけば、その選手の人気度合いを把握することができます。そしてその首振り人形を日系企業クライアントにお渡しすると大変喜んでもらえるのです。
4月2日は2025年初めての大谷のボブルヘッドデー。ドジャースのチケットは人気により変動する「ダイナミック・プライシング」のため、この日のチケット価格は高騰しました。
私が買ったのは3塁側の一番上エリア。球場の中では相当安いチケットの部類になるのですが、ここでも150ドル(当時約2万1000円)。仮に家族4人で訪れたらチケットだけでまず600ドル(当時約8万5000円)、そこにホットドッグ、飲み物、お土産などを購入してしっかり楽しもうとすると1000ドル(当時約14万円3000円)を超えてしまいます。
野球観戦だけで14万円を超えてしまうというのは、ちょっといくらなんでも……。そう思っていたのですが、それでもその日は5万人以上がスタジアムに来場しました。
みんなお金持ちなんだなあと思っていたら、4月19日付けのロサンゼルスタイムズの1面にこんな記事が載っていました。
ドジャースファン、チケット代が高すぎてもう野球に行けない
「ドジャースファン、チケット代が高すぎてもう野球に行けない」(Dodgers games used to be affordable family entertainment. No more)という記事です。
これによれば、野球はアメリカでは“America’s last great affordable sport”(アメリカ最後のお手頃観戦スポーツ)でした。しかし現在のドジャースの試合を4人家族で観に行った場合の平均価格はリーグ史上最高の399・68ドル(当時約5万7000円)です。
USCラスクセンターの調査によると、現在ロサンゼルス郡の平均世帯年収は10万1800ドル(当時約1460万円)です。この給料で生活費などの必要経費を払った後、自由に使えるお金は月530ドル(7万6000円)。そう考えるとちょっと異常な価格になっています。
これほどの金額を1日の野球観戦だけにはなかなか使えないですよね。ロスのそういった現状を踏まえて、改めて球場に来ている人を観察するとアッパーミドル(上流中産階級)らしい人が多く見られます。
そうしたアッパーミドルは1枚50ドル(当時約7200円)のTシャツを販売しているお土産屋さんに長蛇の列をつくります。そしてちょっと贅沢しようとホットドッグでなく39ドル(当時約5600円)のコリアンチキンを頼み、飲み物はコーラではなくビールを頼みます。ビールはスモールサイズで16ドル(当時約2300円)かかります。
球場に入ることができるのは格差社会の勝者だけ
このように庶民にとっては高嶺の花のドジャース観戦です。現状、観戦しに球場に入ることができるのは格差社会の勝者だけです。
他方で富裕層にはシーズン中に何度も来る人が多くいます。そのためエンゼルスなどとは違い、ドジャースは野球観戦を促すようなプロモーション広告を球場外ではあまり実施しません。
オンラインではボブルヘッドデーなどイベントがある試合に関する広告ならたまには見ますが、マス向けのテレビ、ビルボードなどオフラインの広告はほぼ見られません。ドジャースの球場チケットはリピーターに支えられているため、球場内での告知や自社サイトプロモーションだけで十分売れるからです。
シンクタンク「センター・オン・バジェット・アンド・ポリシー・プライオリティーズ」の調査によると、ここアメリカでは最も裕福なトップ1%の人口が、社会全体の30%に及ぶ富を保有しています。
そして人口のボトム50%の資産は社会全体の富の4%にも満たないのです。そういった人たちは貯金はほとんどなく、株などを持っている人も皆無に近いです。
アジア人へのヘイトクライムの根底
ちなみにアメリカ連邦議会予算局のレポートによると、アメリカで上位10%に入る世帯の富は、1989年から2019年で約60兆ドル(約8700兆円)増えた一方、下位半分の世帯は、同期間でわずか1兆ドル(約140兆円)増です。裕福な者がより裕福になっているのが現状です。
本章ではこのように、一見すると華やかな大谷活躍のニュースの裏で、格差やインフレに苦しむカリフォルニアやアメリカのリアルな経済状況について、私の生活実感も交えつつお伝えします。そんな苦境の中で、「なぜ大谷が愛されるのか」をより立体的に理解する助けになればと思います。
アメリカでは人種間の経済格差も目立ちます。
アフリカ系住民によるブラック・ライブス・マター(BLM)運動がアメリカで盛んに行われる中、アジア人に対するヘイトクライムの発生も問題になりました。その根底には、このような収入格差もあるとされております。
アメリカの給料は高いけど、生活は苦しくなっている
アフリカ系アメリカ人は英語を母国語にしている人が多数ですが、アジア人においては新移民が多く、必ずしも英語を喋れるわけではないというのが現状です。
そんな中で「英語もできないのに後から来て自分たちより稼いでいる」として、アジア系が敵視されているのではないでしょうか。
米国勢調査局の年次報告書によると、2023年における米国の実質世帯所得の中央値は8万610ドル(当時約1200万円)です。厚生労働省のレポートによると、2023年における日本の世帯年収中央値は405万円なので、日本と比べると高く見えます。
ですが、アメリカはコロナ禍前の2019年以来4年ぶりの増加で、しかも当時に比べて600ドルほど低い数字でした。その間、インフレ率は2021年は4・68%、2022年7・99%、2023年は4・13%と爆発的に伸びています。
例えば、マクドナルドの2019年と2024年の価格表を見比べるとポテトなどの5品目のインフレ率は平均141%と、5年で倍以上の値段になっています。でも、この5年で給料がこんなに上がっている人はそんなにいませんよね。
家の近くにあった中型オフィスは、老人ホームに改修
これだけの急激なインフレで苦しんでいるのが、いまのアメリカ人の大多数です。
アメリカの住宅都市開発省が発表した『ホームレスに関する年次報告書』(2024年)によると、全米のホームレス数は過去最高の77万1480人となりました。2023年のホームレスの数は65万3104人なので、1年で一気に18・1%増加していることになります。
ちなみに、リーマンショックのあった2007年から2010年の期間ですら、アメリカのホームレス数は63万7000人から55万4000人に減少していました。
ウォールストリートジャーナルによると、米国の賃貸物件空室率は2024年10‐12月期に8%に達し、新型コロナウイルス流行前を上回りました。
一方で民間格付け企業のムーディーズによると、2024年10月‐12月の全米オフィス空室率は過去最高の20・4%を記録しました。
オフィス空室率が高まれば、建設のためにお金を貸していた銀行も困ることになります。ちなみに私の家の近くにあった中型オフィスは、老人ホームに改修されていました。
また、金利が上がったことでアメリカでは不動産の買い控えも起きています。住宅ローン金利は7%前後を推移しており、これだけ金利が高ければ若い人はなかなか手を出せません。
アメリカの18~29歳の約半数は親と同居
ピュー・リサーチ・センターによると2020年時点でアメリカの18~29歳の約半数は親と同居しています。これは1940年以来の高さだといいます。また親と同居しないにしてもワンベッドルームに4人で住むなどして、なんとか寝床を確保している人の話も聞きます。
そんな状況で2025年1月、ドナルド・トランプ氏が再び大統領に就任しました。トランプ氏は就任直後から世界各国に対して関税引き上げを発表し、世界経済は大混乱しました。中国などから多く製品を輸入するアメリカにおいては、今後インフレが起きることが予測されています。
それによって困るのは貧困者です。貧困者が生活に頼っている安価な製品の多くは輸入品だからです。このような状況にエコノミストなどはアメリカが本格的な景気後退(リセッション)に入る可能性を示唆しています。また、スタグフレーション(景気停滞とインフレの同時進行)を起こすことも十分にあり得ます。
カリフォルニアの35%「基本的な生活費を賄うのに十分な収入がない」
すでにその兆候は見えており、配送サービスのUPSは2025年4月に2万人規模のレイオフを発表。同月、半導体大手のインテルも20%超のスタッフの削減を計画しているとブルームバーグが報じました。2024年にも当時の従業員の15%を削減していたので、追加のリストラです。
実際、家計収支が赤字の家庭も珍しくありません。NPOの「ユナイテッド・ウェイズ・オブ・カリフォルニア」のレポートによると、カリフォルニア州全体の世帯の35%(380万世帯以上)が基本的な生活費を賄うのに十分な収入がないことがわかりました。
大谷の活躍はたしかに華やかで、彼の活躍に伴ってビッグマネーが動いているのを見ると、とても景気のよさそうな国に見えるかもしれません。しかし、足元の景気や庶民の生活は必ずしも素晴らしいものではないのですね。
文/岩瀬昌美
大谷マーケティング 大谷翔平はなぜ世界的現象になったのか?
岩瀬 昌美
野球界と広告界、2つの世界を制覇した大谷翔平の秘密に迫る
大谷翔平のメジャーリーグでの活躍は毎日のようにニュースになり、多くの史上初記録を生み出しています。しかし、大谷の本当のすごさは野球界のみならず、広告界も制覇したことにあります。
*以下、本書目次より抜粋
まえがき ロサンゼルス在住マーケターから見た大谷翔平
第1章 誰が大谷翔平に熱狂しているのか
第2章 大谷はエンゼルスに何をもたらしたのか
第3章 エンゼル・スタジアムを彩った広告たち
第4章 ドジャース移籍で大谷のバリューはどれだけ上がった?
第5章 大谷翔平広告の批判
第6章 大谷翔平から見るアメリカ経済
第7章 大谷翔平をマーケティングで活かす方法
あとがき