
御年97歳。その年齢を聞いて誰もが驚くほどの若々しさと、衰えを知らない知性で、常に世の中を俯瞰し、未来を指し示す人物。
「アップルパイ以来のすごい発明だ!」
91歳にして初孫を授かったという中松さんによると、現代人は「セックスへの関心が薄すぎる」という。そこに加え、政府の方策も「根本的に間違っている」と指摘する。
「我が家が孫を授かったのは普通よりは遅かったかもしれませんが、大事なのはいくつになっても子どもを持つことを諦めないということです。
また、政府は子どもが生まれたときにお金を出す、とか、教育無償化を打ち立てていますが、意味がないですよ。みんな子どもを作らないんだから。
ではどうするか。『愛し合う2人のセックスは素晴らしいものだ』ということをもっと広めるんです。カップルにじゃんじゃんセックスをしてもらって、子どもを作ってもらう」(中松さん、以下同)
ここで登場するのが、中松さんご自慢の発明品である。
「ラブジェット(※)を使うんです。これは20年以上前、少子化問題が本格的にいわれ始めたころに私が日本の人口減少を止めるために発明した、画期的な商品です。(※中松さんが、独自の理論に基づき発明した愛の香水)
これを使うと、DHEA-S(※)というホルモンの分泌量が増え、性欲が増し、感度もアップします。
フェロモン香水としてセックスの際に使用するとエクスタシーが同時期に訪れ、愛情が増し、ますますラブラブになってセックスをしたくなります。そして、愛の結晶を作りたくなるというわけです」
ラブジェットを使用したアメリカ人の夫婦には『これはアップルパイ以来のすごい発明だ!(Love Jet is the best invention since apple pie!)』と言う感激の手紙をいただいた。
「しかも、DHEA-Sの増加は若返り効果もありますから、子育ても頑張ることができます。少子化対策、医療費削減のためにも、政府がラブジェットの配布をすればいいのです」
若いころからモテモテだった
さらに自身を踏まえ、「高齢者」に対し「長経験者」という呼び名を「発明」したという中松さん。中松さんを筆頭とした元気な「長経験者」たちが、子育てを支援するというのも対策として考えられるだろう。
「全方位発明家」である中松さん。だが、これまで発明してこなかったジャンルはあるのだろうか。
「振り返ってみると、『モテるため』といったジャンルの発明はしていないと思います」
意中の人を射止めたい。この世に生を享けた多くの人たちが一度は抱く願望だろう。ドクター・中松の発明リストに並ばなかったのはなぜなのか。
「常にモテていたからなんですね。若いころ、吉田茂首相の専属シェフさんに『早川雪洲(戦前にハリウッドで人気を博した俳優)の若い時にそっくりですね』と言われたこともあります。
会社員時代、宴会の場に行くと新橋から来た芸者さんたちが『あら、いい男ね』『(俳優の)長谷川一夫みたい』って、寄ってきて話したがったものです。それで上司や同僚から羨ましがられました」
それだけでなく、東大生時代より資産家令嬢たちから「結婚してほしい」「うちの婿に」という話が尽きなかったのだとか。
確かに、青年時代の写真を見ると、五月人形のような頼もしくも柔らかさをたたえる美青年である。
「母の遺伝子だと思います。母は聡明で美しく、私の誇りでした。女学校の教師を務めていたころは、生徒たちに当時の美人女優の『グレタ・ガルボ』と呼ばれたそうです。
私は母の母乳を普通の人よりも長い6歳まで飲んで育ったのですが、それにも母の深い愛情を感じています。母の遺伝子を充分に身体に吸収したのです。母は101歳で亡くなりましたが、私が長寿なのも母の遺伝子のおかげもあるでしょう」
その他にもモテた理由をこう分析する。
「私は人の悪口を言わない。そして、誰だとしても人の話をきちんと聞くようにしている。自分だけではなく、みんなの幸せのために行動する。
いわば、私がモテていることは、発明の力じゃなかったんですね」
確かに中松さんのモテモテぶり、もとい慕われぶりは年々増しているようだ。
『初体験を持った年齢×6』が寿命
6月26日に行なわれた「サー中松博士 100-3才大誕生祭」は、中松さんを慕う面々が大勢駆けつけた。
なお、その場ではなんと3年後となる「100才大生誕祭」の参加券の発売を開始。98歳、99歳はいいの?と少々疑問がよぎったが、さっそく売れ行きは好調だという。
「確かに私はモテモテでしたが、『社会に出てからしばらくは恋愛ではなく世の中のために邁進しなさい』という母の教えもあって、女性経験を初めて持ったのは24歳のときでした。
人間の細胞分裂が止まるのは医学的には120歳といわれています。つまり人間は本来なら120歳まで生きることができる。そこに加えて、私の独自の研究によると、運動や食事などを考慮しつつの数字ではありますが『初体験を持った年齢×6』が寿命だと考えています。ということで、私は144歳まで生きられるんですね。
脳梗塞や前立腺導管がん、心筋梗塞など、大病もいくつか経験しましたが、日々の発明活動のおかげですこぶる元気です。まだまだ発明を続けられるのはとても嬉しい。
発明王・エジソンは「天才とは、1%のひらめきと99%の努力である」という名言を残した。エジソンより長く生き、エジソンよりも幅広い視野を持つエンターテイナーであり続けている中松さん。「ドクター・中松」こそが、本名・中松義郎の最大の“発明”かもしれない。
PROFILE
中松義郎(なかまつ・よしろう)●1928年東京生まれ。国際最高教授。5歳で模型飛行機の「自動重心安定装置」を発明。東京大学工学部卒業後、三井物産に入社し、ヘリコプターによる農薬散布などを発明し、記録的なセールスを達成する。29歳のとき「ドクター中松創研」を設立。「灯油ポンプ(醤油チュルチュル)」や「フライングシューズ」など、世界に認められた発明件数は約4000件。科学技術庁長官賞、イグ・ノーベル賞栄養学賞を受賞。
取材・文/木原みぎわ 撮影/佐藤靖彦