
日本からの渡航者数が、年間で100万人を超えるタイ(2024年、タイ国政府観光庁調べ)。同国では、「医療目的に限定して大麻が合法」とされてきたが、実際は首都バンコクなど各地で大麻の製品を扱う店が多数存在し、事実上誰もが「娯楽目的」で大麻を購入できた。
しかし、タイ政府は2025年6月に「大麻を購入する際に医師の処方箋の提出を新たに義務づける」という規制強化を実施。これでタイの「大麻カルチャー」はどう変わるのか。現地在住の日本人ライターが、その実態を調査した。〈前後編の前編〉
“アジア唯一の合法国”にして“合法大麻の楽園”
2022年、タイでは大麻が事実上、合法化された。 当時の政権は「医療利用のため」という建前を掲げながらも、実際にはディスペンサリー(大麻販売店)が急増し、観光地、特に歓楽街周辺では大麻のにおいが漂うのが日常となった。
以来“アジア唯一の合法国”としてタイには世界中の旅行者が詰めかけている。
これまで、大麻の購入にパスポートなど身分証の提示は不要。診断書も処方箋も必要ない。未成年や妊婦など、明らかに“断られるべき人”を除けば、外国人でも簡単に購入できていたのが実態だ。
飲食店やホテルでの使用が黙認されていた時期もあり、“喫煙OK”の焼肉屋が話題となったこともある。歩きタバコならぬ、「歩き大麻」も決して珍しい光景ではなかった。そこには“合法大麻の楽園”と呼ばれる“ゆるさ”が、確かに存在していたのだ。
しかし、2025年になって状況は大きく揺れ動こうとしている。
これにより、これまで誰でも店で自由に購入できていた“アジア唯一の合法大麻”に、大きな転機が訪れた……はずだった。
かたちだけの「処方箋」と“政治の都合”による規制
再規制の象徴とされたのが「処方箋の取得」の義務付けだ。
「購入時には医師による診断が必要とされ、処方箋を持っていないと大麻は購入できない」
というアナウンスに、多くのユーザーが戸惑った。SNS上では、「どのクリニックで処方箋が発行されるのか」といった情報が飛び交い、混乱が広がった。
本記事を執筆している2025年7月現在は、ルール改定のための体制整備はまだ猶予期間中である。実のところ、現時点でクリニックなどにわざわざ処方箋をもらいに行く人はほぼいない。
バンコクのディスペンサリーでは、店頭で「名前/症状/パスポート番号」を専用の処方箋フォームに記入するだけで簡単に大麻が購入できるのである。
しかも、そういったルールがあるのは観光客が多いエリアの、一部のディスペンサリーのみ。少しローカルなエリアに行けば、「処方箋」という言葉すら出てこない。つまり、実質的には再規制以前とほとんど変わっていないのだ。
あるディスペンサリーのタイ人スタッフはこう語る。
「タイはいつもこう。
「今回の再規制も“政治の都合”にすぎない。本気で取り締まる気なんてないよ」
制度だけが先行し、現場の実態とは乖離している。そんな“ねじれ”が、今のタイにはある。
大麻の「喫煙所」はどうなっている?
ただし、「大麻を吸える場所」については、以前に比べて明らかに厳しくなっている。特にホテルでは「大麻禁止」を明示する場所が増え、飲食店付近などの灰皿が置かれているゾーンでも、わかりやすく大麻禁止マークが掲げられている。
SNSにおいても非喫煙者による、「大麻のにおいが迷惑」との声が増えていたのは確かだ。ただ、これに対して喫煙者が「マナーを守ろう」と自覚的に行動することで、バランスを取ろうとする動きがある。
法律上も、「ディスペンサリー店舗内であっても喫煙スペースの提供は禁止(医療目的は除く)」とされ、法改正がされてから1~2週間の間はほとんどのディスペンサリーで店内での喫煙が禁止されたことで、多くの観光客が困惑していた。
だが先日、とあるディスペンサリーの会員向けメッセージにはこんな文言があった。
「everything’s back in action. You know what we mean.」(もう全部元通りだよ。言いたいこと、わかるでしょ?)
これは暗に、「また店内で吸えるようになったよ」ということを伝えているのだ。実際、事実上の「喫煙可能スペース」を店の奥に設けている店舗は現時点ではいくらでも存在する。「制度上はダメ」「実際はOK」──その矛盾に、誰もが目をつぶっている。
処方箋は“買うための儀式”?
観光客の反応はどうか。「処方箋制度って本当に必要なの?」という戸惑いは強いものの、「紙に名前とパスポート番号を記入して、サインするだけ。これで“医師の診断”って言われてもね……」と苦笑する声も聞かれる。
処方箋制度は、むしろ「購入時のセレモニー(儀式)」に近いという見方もある。実際、新制度の導入が発表された直後の数日間こそ混乱が見られたが、それも一時的。今では多くの観光客が「何も変わっていない」と感じながら、普通に大麻を購入している。
ただし、変化がなかったわけではない。たとえば、エディブル(食用大麻製品)の販売は禁止され、一部の商品が店頭から姿を消している。だが、これも“観光地から少し離れた店舗”では普通に販売されている現実がある。
一般的に、「大麻は、お酒やその他のドラッグよりも害が少ない」という見方がある。しかし、バンコク病院のスタッフによれば、「大麻の摂取過多」で搬送される旅行者が存在しているのも確かだという。そして、そのなかには日本人も含まれる。
大麻が非合法国の日本人が大麻過剰摂取で病院に来た場合、当然、保険は適用されない。
「タイの大麻カルチャー」は終わったのか?
現地のタイ人の言葉にもあったように、大麻をめぐる制度はたしかに“後戻り”しているようにも映る。だが、筆者の見解では、それがただちに「文化の終焉」を意味するとは限らないと思える。
今、タイで起きているのは「グラデーションの変化」だ。規制と現場のねじれ、制度と感覚の乖離、そこに宿るのは、社会が“成熟するための過渡期”なのかもしれない。
日本の“麻文化”同様に、タイと大麻は切っても切れない深い関係にある。そもそも、タイは古くから民間療法や伝統医療で大麻が使用されてきた国だ。大麻を喫煙する際に利用される水パイプ「ボング」もタイ語が由来だというのは広く知られた話だろう。
大麻を推奨することが本記事の趣旨ではないが、日本ではいまだに「大麻=悪」と単純に捉えられることが多い。だが、“合法国”タイの現場には、「大麻=悪」とする単純な善悪の枠組みでは捉えきれない、多様な現実があるのだ。
#2 に続く
※なお日本では大麻の所持および使用は禁止となっている。詳しくは外務省ホームぺージ「タイの大麻に関する規制緩和(注意喚起)」を参照。
取材・文・写真/伊藤良二