
第二次世界大戦末期、「ゼロ戦」や「隼」などの戦闘機による特攻が行われたことは、現在まで広く語り継がれており、その史実を伝える資料や文献も多い。だが、爆撃機だけによる特攻が行われたことを知る日本人は、今、どれほどいるだろうか。
『生還特攻 4人はなぜ逃げなかったのか』 (光文社新書)より一部抜粋、再構成してお届けします。
「菊水隊」への抜擢
1944(昭和19)年12月13日の夜。
基地の兵舎で体を休めていると、戦隊本部にいる週番の兵長が、中村たち爆撃機搭乗員を呼ぶ大きな声が聞こえてきた。
「なにごとだ。こんな深夜に召集か?」
戦隊本部に駆け付け、中村たちが整列すると、兵長が静かに命令を伝えた。
「明日の攻撃隊の搭乗区分を申し上げます。隊長機(1番機)、機長、丸山……、正操縦士、橘軍曹……。続いて2番機、機長、藍原少尉、正操縦士、中村軍曹……」
2番機の操縦士として自分の名が呼ばれるのを中村は確かに聞いた。
搭乗区分の告示には、もう慣れている。
だが、「今回は、どうもこれまでの出撃命令とは違うな……」ということが、この深夜の異例の発表から分かったという。
「これまでは夜間爆撃ばかりでしたが、日中に飛ぶということですからね」
だが、とくに驚きも動揺もしなかったという。
中村は、「このとき」が来るのを覚悟していたからだ。
「いよいよ明日は特攻か。このところ、基地を飛び立って行ったきり、帰ってこない隊員が増えてきたからな。そろそろ自分の順番が来るころだとは思っていたが」
兵舎に戻るとすぐに家族あてに遺書を書いた。
「父と母の健康を祈り、妹には『良き日本の妻たれ……』。そんな内容の文章だったと思います」
はっきりと文面の内容を覚えていないのは、特攻という認識が、「そのときそれほどなかったから」だとも。それもそのはずで、連日の夜間爆撃で基地へ戻ってこない僚機を中村は数多く見てきていた。
“死”は日常だったのだ。
その後、身の回りの自分の持ち物を整理して風呂敷で包んだ。
「こんな遠く離れた南洋から、日本の実家に届くとも分からない遺品でしたが……」
日付けが変わって14日午前1時を過ぎたころ、再び集合がかかった。
中村たち搭乗区分に名前があがった隊員たちは飛行服を身に着け、戦隊本部へ向かった。
戦隊長は搭乗員たちを前にこう告げた。
「この攻撃隊は特別攻撃隊『菊水隊』と命名せらる」
違和感を覚えた隊長の命令
「やはり特攻だ」。隊員たちの顔に緊張が走る。
続いて1番機の機長、丸山隊長が、搭乗員を前に、こう訓示した。
「各機、“確実な方法”で敵艦を撃沈せよ」
このとき、中村は隊長の命令に違和感を覚えたという。
「隊長は“確実な方法”でと言い切った。“絶対に特攻して沈めよ”とは言わなかったのです」
中村が正操縦士として乗る2番機には、ほかに通信員、機体前方と後部上方、尾部の銃座を受け持つ搭乗員が4人。計5人が乗ることになった。
「通常の飛行では『呑龍』には、正操縦士の隣に副操縦士が付くのですが、特攻だから最小限の編成にしたのだと分かりました。隊長機だけには6人が乗っていました」
滑走路では整備士たちが、あわただしく出撃の準備を整えていた。
「機体に500キロの跳飛弾攻撃(水面を跳躍させて目標に当てる攻撃法。海軍では『反跳弾』と呼んだ)用の爆弾が積まれ、燃料タンクの3番は空にしていました。片道燃料だけで足りますからね」
「特攻で敵艦を沈めよ」とは言わなかった丸山隊長だが、出撃前にこんな行動を取ったという。
「丸山隊長は爆撃機に乗る際、搭乗員が身に着けるパラシュートの縛帯と海に落ちたときに使う救命胴衣を戦地本部のテントの床に投げ捨てたんです。それを見た隊員たちが隊長にならい、次々と同じ行動を取りました」
もう、生きて帰ることはない――という決意表明だった。
中村は2番機に乗る5人が集まったところで作戦会議を開いた。
「いいか。どうせ死ぬのなら、敵艦隊のなかで一番大きな艦を見つけて攻撃しようではないか。低空で敵艦に迫り、まず私が跳飛弾で攻撃を仕掛けるので、前方射手の足立伍長は13ミリ弾を全弾、敵艦に撃ち込んでくれ。爆弾攻撃を終えたら、敵艦を追い越す際、海面すれすれまで高度を下げるので、後部上方と尾部の13ミリ弾を全弾撃ち込んでほしい。それでも敵艦が沈まなかったら、そのときは反転して機体ごと突っ込む!」
特攻は怖くはなかったが、「自分が正操縦士として、他の4人の命を預かっていること」に中村は大きな責任を感じていた。だから、慎重にこの作戦を考え抜いたのだという。
「自分の意志だけで敵艦に体当たりして5人の命を失う。果たしてそれは許されることなのだろうか? ただ、自分はやれるだけのことはやるぞ!」
中村の思いは固まった。
重爆だけの編隊飛行
午前6時。出撃のときが来た。
「12月14日は赤穂浪士の討ち入りの日。ただ、このときの我々、特攻隊は計49人で“四十七士”ではなかったのですがね」
242年前の1702(元禄15)年の、この日、死を覚悟した侍たちへ思いを馳せながら、中村は“出陣の瞬間”を待った。
南洋の美しい海が、いつものように夜明けの太陽の強い日差しで眩しいオレンジ色に染まり始めていた。
滑走路の向こうには、整備員や同僚の隊員たちが整列している姿が見えた。
文/戸津井 康之
『生還特攻 4人はなぜ逃げなかったのか』 (光文社新書)
戸津井 康之 (著)
何のために命を懸け、いかに生きたのか
〝体当たり〟の真実に迫る
◎内容
命を懸けて大空を飛んだ
4人の証言から「特攻」の真実に迫る――。
この書のテーマは「特攻」である。
「特攻」という言葉を現代の日本人で知らない者はいないだろう。
だが、実は、「その言葉には決まった定義がなく、説明もあいまいで
その概念は定かではない」ということを知る日本人は少ないのではないか。
戦後80年の間、その定義を、その後に生まれた日本人たちは、
それぞれが勝手に判断し決めつけてきた。
それが、「かつて特攻が行われたという史実」から、
年月が経つほどに日本人の目を背けさせてきた理由ではないか?
(「はじめに」より)