
2025年3月3日、102歳の誕生日を迎えた中村真氏は、1944(昭和19)年12月14 日、 「呑龍」の操縦士として、特攻作戦「菊水特攻隊」の一員として出撃し、奇跡的に日本へ生還した一人だ。そんな彼が語る戦争体験と、生還してから味わった辛酸とは……。
『生還特攻 4人はなぜ逃げなかったのか』 (光文社新書)より一部抜粋、再構成してお届けします。
“体当たり”という名の特攻
日本の戦史の記録では、12月14日の中村たち「呑龍」の出撃は「菊水隊」による特攻と記録されている。
だが、中村は「それは真実とは少し違うのではないか」と言う。
中村は、改めて、その日の上官たちからの命令を頭のなかで反芻してみた。
確かに、出撃直前の命令で召集がかかった際、戦隊長から、「この攻撃隊は特別攻撃隊『菊水隊』と命名せらる」とは伝えられた。
だが、中村は「その後すぐに丸山隊長から受けた訓示」を忘れなかった。
「『各機、確実な方法で敵艦を撃沈せよ』。丸山隊長はそう言い、『体当たりで沈めろ』とは一言も言ってはいないのです」
この命令を確認したうえで、中村は出撃直前、4人の搭乗員に伝えた作戦を考え出したのだ。
「爆弾を投下し、全弾打ち尽くして、なお、敵艦が沈まぬ場合は体当たりする」というあの作戦だ。
戦場の最前線にいた中村たち搭乗員の特攻に対する認識と、今、語り伝えられている特攻に対する認識とに強い違和感を覚える、と中村は言う。
「特攻隊の存在について、当時の私たちには事前にその知識はなかったので、ただの体当たりだととらえていました。爆弾を抱えて直接、体当たりしなくても、弾尽き矢折れ、どうすることもできなくなれば、敵の陣地へ突っ込んで自爆する。なにも特別攻撃隊などと呼ばなくても、兵士の死に方としては、それが当たり前でしたから」
少尉に特進
1945(昭和20)年8月15日。
オーストラリアの捕虜収容所で、中村は戦争が終わったことを知る。
それから、さらに約7カ月間、収容所で過ごした後、中村は復員船に乗り、約1カ月かけて日本へ帰ってきた。
郡山の実家近くに辿り着いたときには、もう日が暮れていた。
辺りはすっかり暗くなり、灯りが漏れる実家の窓をのぞきながら、しばらく家の周囲を歩いていたら、「真かえ?」と家のなかから呼びかける母の声が聞こえてきた。
顔を見なくても分かる、その声は間違いなく懐かしい母の声だった。
「そうです。真です。只今、帰りました」。縁側の窓の外から中村が、こう答えると、勢いよく雨戸が開け放たれ、母が縁側へ飛び出してきた。
「真だあ、真だあ……」
母はうわごとのように何度も中村の名前を叫びながら、その場に座り込んでしまった。
家の奥で寝ていた父が寝床から、「真か、真なのか! お前は陸軍少尉になっているぞ!」と大きな声で叫んでいた。
父は中風で倒れ、寝込んでいたが、息子の帰還を心から待ち侘びていたのだ。
あの12月14日、中村が「菊水隊特攻」で出撃した日。
「特攻により中村真は戦死しました」
そう陸軍から、福島県の中村の自宅へ報告が届いていた。
「すぐに私が陸軍少尉に特進したことと、功四級勲六等旭日章授与が内定したことを知らせる通知が自宅へ届いていたんですよ」と中村は苦笑しながら説明してくれた。
「少尉になっているぞ」と故郷へ戻った日に父が叫んだのは、この通知のことだったのだ。
すでに実家では、中村の葬式が営まれた後だった。
「上官が私のために書いてくれた弔辞が、仏前に供えてありました。いかに自分が勇猛果敢で、優れた陸軍兵士であったかがとつとつと綴られていましたよ」と中村はいたずらっ子のように笑ってみせた。
「だって、生きているうちに自分の弔辞を読むことができるなんて、そんな人はめったにいないでしょう」
「なぜ、お前は帰ってきたんだ!」
中村が生還したことを知った第一復員省から、すぐに新たな通知が届いた。
「戦死の届けを取り消すために、直ちに復員省へ出頭するように……。そんな呼び出しの文面でした」
死亡届の提出によって、中村のこの国での“籍”は消失していたのだ。
その後、「死亡通知取り消し、と記されたはがき一枚が届きました。命懸けで戦ってきて何とか生還した命に対し、たったはがき一枚のやりとりでした」
あまりにも人として血の通わない“お役所仕事”に、中村はあきれたが、もう怒る気力も失っていたという。
「私が通っていた地元の小学校の先生は教会の牧師さんでもあったのですが、帰還した私の顔を見ると、いきなりこう言ったのです」
「なぜ、お前は帰ってきたんだ!」と。
戦犯者を見るような冷たい目だったという。
戦場へ送り出されるときは、みんなが「万歳、万歳」と英雄のように称えていたが、命を懸けて戦い、生き抜いた若者たちを、終戦後、この国は温かく迎え入れようとはしなかったのだ。
「命からがら帰国してみると、この国はあまりにも変わり果てていた……」
故郷の自分のことを幼いころからよく知る者でさえ、「よくぞ生きて戻ってきてくれた」とは言ってくれず、「なぜ帰ってきたのか」が、その答えだったのだ。
中村だけではない。
取材した多くの帰還兵たちは、皆同じような冷たい対応をされたと証言している。
見ず知らずの人ではない。
人を教え導くことが仕事である自分の学校の恩師、教育者でも、こんな手のひらを返したような姿へと変貌していたのだから。
「この国は、戦争で負けてあまりにも多くのものを失ってしまったのか」と中村はやるせない気持ちになったという。
その後、中村は特攻や戦争体験について、「もう話すことはよそう」、そう決めたという。
しばらく地元・福島で過ごしていた。
伯父を頼って司法保護団体で1~2年ほど働いていたこともある。
しばらく荒んだ気持ちにもさいなまれたが、元来、中村の性格は陽気で快活。持ち前のバイタリティーがあふれ出てきた。
「人生のやり直しだ。それなら、もう一度、この国のために働こう」
そう思い立った中村は、警察官を目指し、試験を受けることにした。
東京都の警視庁警察官採用試験を受験。見事、試験を突破した中村は重爆撃機「呑龍」の操縦士から、警視庁の警察官として生まれ変わり、第二の人生を歩み始めることになった。
機動隊員に抜擢された中村は、その後も一貫して機動隊畑を歩む。
1972(昭和47)年、長野県軽井沢で起きた連合赤軍による「あさま山荘事件」の現場へも、機動隊員として警視庁から応援で駆け付けた。
「警察官として32年間。定年まで勤めましたよ」
日本にいる家族、国民の命を護ろうと、フィリピンで戦った爆撃機「呑龍」の操縦士は、戦後も、屈強な警視庁の機動隊員として、日々、国民の命と国の平和を護るために、生涯を捧げたのだった。
文/戸津井 康之
『生還特攻 4人はなぜ逃げなかったのか』 (光文社新書)
戸津井 康之 (著)
何のために命を懸け、いかに生きたのか
〝体当たり〟の真実に迫る
◎内容
命を懸けて大空を飛んだ
4人の証言から「特攻」の真実に迫る――。
この書のテーマは「特攻」である。
「特攻」という言葉を現代の日本人で知らない者はいないだろう。
だが、実は、「その言葉には決まった定義がなく、説明もあいまいで
その概念は定かではない」ということを知る日本人は少ないのではないか。
戦後80年の間、その定義を、その後に生まれた日本人たちは、
それぞれが勝手に判断し決めつけてきた。
それが、「かつて特攻が行われたという史実」から、
年月が経つほどに日本人の目を背けさせてきた理由ではないか?
(「はじめに」より)