
今から56年前の1969年8月9日、日本で初めての野外フェスティバルとして語り継がれる「全日本フォークジャンボリー」が開催された。今や伝説ともなった、この音楽イベントの舞台裏を紹介する。
アメリカでウッドストック・フェスティバルが開催された1969年8月15日よりも1週間前、日本の岐阜県では「全日本フォークジャンボリー」が開催された。
日本での野外フェスの先駆けにもなった、このイベントの実現に向けて最初に動いたのは、当時、中津川市で訪問販売の仕事をしていた31歳のサラリーマン、笠木透だった。
1937年に岐阜県で生まれた笠木は、大学を卒業すると上京して出版社に入ったが、会社の空気や都会の雰囲気に馴染めず、退社して地元に戻り、新たな仕事に就いていた。
里帰りしたことで敗北感を感じていた笠木だったが、そんな日々の中で夢中になったのが、深夜にラジオから流れてくるフォーク・ソングだった。
1966年に中津川労音が設立されると、笠木はその一員となり、翌1967年には高石ともや岡林信康といったフォーク・シンガーを招いて、地元の学校でコンサートを催した。
1969年の1月に東大安田講堂が落城した後も、テレビでは連日のように学園闘争の模様がニュースで流れていた。若者たちが声を上げて体制に反抗している様子を見て、笠木も地元で何かできないかと考えた。
「高石たちを集めて、屋外でフォークコンサートはできないだろうか。やるなら、自前でやろう」
そんな動機で、「全日本フォークジャンボリー」は動き始めたのだ。
中津川労音を中心に実行委員会を発足すると、笠木は副委員長として出演者の交渉に当たり、高石や岡林が所属する高石事務所の協力を得ることができた。
アメリカにおけるフォーク・シーンの大御所、ピート・シーガーにも出演のオファーを出した。残念ながら日程が合わなかったものの、「成功を期待します」というメッセージが届いたのは、大きな励みになった。
しかし、野外コンサートの実現に向けて動き出したものの、全てが手探り状態で課題は山積みだった。
まずは会場を決めなくてはならなかった。中津川市の保古湖畔が候補に挙がり、市議会に使用許可を求めたが、学生運動真っ只中のご時世に全国から若者が大勢集まることに難色を示し、許可が下りなかった。
そこへ名乗り出たのが隣町、坂下町(後に中津川市に併合)であった。戦後に作られたダムの人造湖、椛の湖を観光地にするための足がかりとして、フォークジャンボリーを開催したいというのが狙いだ。
「自前でやろう」という言葉通り、地元が一体となってコンサートの準備は進められていく。湖畔の木を切り開いて広場を作ると、次は会場やトイレを設営しなければならない。こうして町の業者や若者たちの協力によって、なんとか問題を解決して開催までこぎつけた。
2,500人の若者が昼夜通して約15時間盛り上がる
前半はアマチュアによるステージで、歌いたい人なら誰でもステージに上がることができた。ところが希望者が予想以上に多くて後を絶たず、プロによる後半のステージが始まったのは深夜0時頃になった。
歌舞劇団の田楽座による民謡で幕を開けると、遠藤賢司、岩井宏、五つの赤い風船、中川五郎、上條恒彦とライブは続き、深夜にもかかわらず会場は大いに盛り上がった。
早川義夫がいたジャックスは、この日がバンドとして最後のステージだったので、鬼気迫る演奏だったという。
その後は高田渡がバトンを引き継いで、日が昇り始めた頃になって、ようやく最後となる岡林信康と高石ともやの出番となった。
それが終わってアンコールになると、他の出演者も再びステージに上がって歌い始め、終了したのは午前9時過ぎだった。
地元の人たちの手によって実現した「全日本フォークジャンボリー」は評判となり、翌年の第2回には約8,000人、翌々年の第3回はさらにその3倍ほどの大観衆が集まることになった。
しかし、規模が膨らむにつれてプロダクションも参加するようになり、笠木が掲げた「自前でやろう」という本来の目的は希薄化していかざるを得なかった。
結局のところ、第3回をもって「全日本フォークジャンボリー」は幕を閉じたのである。
一方で笠木は自ら詞を書いて歌うようになり、「歌った以上はそのように生きろ! やれないことは歌うな!」という言葉を胸に刻んで、2014年12月22日に77歳で亡くなるまで、フォーク・シンガーとしての人生を全うした。
そんな笠木が「全日本フォークジャンボリー」を終わらせた1971年に歌詞を書いたのが、『私に人生と言えるものがあるなら』だ。
これは「Faded Roses」というアメリカの民謡を訳詞した楽曲だが、歌詞にある「あの夏の日々」の中には、フォークジャンボリーでの熱い日々が蘇ってくる。
文/佐藤剛 編集/TAP the POP
参考文献:『日本フォーク紀 コンプリート』黒沢進(シンコーミュージック・エンタテイメント)、『アエラ・イン・フォーク No.16 4/5号 (アエラ臨時増刊)』(朝日新聞社)