
1991年、エイズ予防財団が制作した啓発ポスターの「いってらっしゃい。エイズに気をつけて。」というコピーに抗議が殺到した。
『その〈男らしさ〉はどこからきたの? 広告で読み解く「デキる男」の現在地』より一部抜粋・再構成し詳しく解説する。
欲望の対象が一転「性感染症の脅威」に
男性が性的に活動的であることが称揚される文脈では、女性は欲望の対象として客体化して描かれますが、性感染症の予防を啓発する広報の中では一転して、女性は男性に感染症という脅威をもたらす存在として描かれます。
代表的な事例として挙げられるのが、エイズ予防財団が制作した啓発ポスター(1991年)です。海外出張に向かう男性が、「いってらっしゃい。エイズに気をつけて。」という見送りの呼びかけに対して、パスポートで顔の上半分を隠して苦笑いを浮かべる写真が使われています。
このポスターは、男性が海外出張時に買春行為をすることを前提とした上で、セックスワーカーをHIVの感染源と揶揄(やゆ)した差別的な表現として、抗議を受けて回収されました。近年の性感染症予防啓発広報ではここまであからさまに性差別的な表現は見受けられなくなりましたが、依然として男性中心主義的で、異性愛規範を前提とした家父長制的な価値観が根強く残っています。
2010年代以降、コロナ禍を経る中で梅毒が急速に感染拡大しています。性感染症に対する意識啓発も含め、若年層への性教育のみならず、壮年・中年層に対しても性に関する知識を学び直し、「性の健康管理」により積極的に取り組むことの必要性が説かれるようにもなっています。
このような機運の高まりがあるとはいえ、性感染症に関する報道や予防啓発広報においては、「不特定多数の相手と性的関係を持つこと」が感染リスクを高めることのみならず、婚姻関係や性道徳からの逸脱という観点から否定され、責められるべきという価値観が根底にあります。
たしかに、多くの人との、高い頻度での性的接触は感染確率を高めます。しかし、だからといって、セックスをする相手を一人に定めるべきというモノガミー(一夫一婦制)、モノアモリー(一対一の恋愛)的な価値観や関係性を性感染症予防の前提に位置づけることは、公平性が求められる公共機関の広報にとって適切とはいえないでしょう。
女性を性感染症の「リスク」と位置づける誤った認識
厚生労働省が制作・配布している性感染症予防啓発ツールは、梅毒感染の急増を受けて表現の仕方も徐々に変化しています。
2013年度制作のポスターでは「性感染症 相手が増えればリスクも増える。」というキャッチコピーで、中央に置かれた男性のピクトグラムのついたハブに、女性のピクトグラムのついた赤いUSBケーブルが8本つながれています。
ポスター内のテキストは「感染のキケンを減らすには、複数の相手と無防備なカンケイをもたないこと。より効果的な予防のために、コンドームも忘れずに。」と異性愛男性に対する呼びかけの形をとっており、女性はもっぱら性感染症の「リスク」、すなわち男性の身体に脅威をもたらす存在として位置づけられています。
2023年度のリーフレットでは、イラストで男女二組のカップル(一組の方は女性が妊娠していることをうかがわせる描写)、男性同士、女性同士のカップルを描き、「性的接触があれば、誰でも感染する可能性」を明示しており、2013年度のポスターと比べると格段に性的関係の多様なあり方への配慮が反映されています。
しかし、「梅毒を放置するとあなたがきっかけで大切な人も感染する可能性があります」とあるように、「自分自身を守る」こと以上に、「大切な人」の存在に寄せて注意喚起する表現が用いられています。
あたかも「複数(不特定多数)の相手」と「大切な人」が常に別項目の中に存在しているかのように表現し、イラストやピクトグラムを多用してセックスや性感染症の要因について直接的な表現を避ける傾向は、厚生労働省の性感染症予防啓発広報に通底しています。
性感染症予防ポスターに潜むミソジニー
「男磨き界隈」の価値観や精力剤の広告では、男性が発揮する力を性欲や性的能力に直接的に結びつけて肯定的に評価し、女性を欲望・支配の対象に位置づけています。
その男性の性的な能力が、ひとたび性感染症というリスク、すなわち身体が脆弱な状態になる可能性にさらされると、「欲望」の対象である女性が一転して「脅威」として扱われて描かれることになります。
「セックスはしたいが、女性は危険」という男性側の認識のもとに、女性を脅威・憎悪の対象として位置づける表現の仕方は、「いってらっしゃい。エイズに気をつけて。」の時代からさほど変わっていません。
また、このような認識をベースにすると、異性愛男性に対して「女性とのセックスを通して性感染症に罹患(りかん)することの恐怖訴求」はできたとしても、男性から女性に感染させることに対する危機意識が抜け落ちてしまいます。
海外でも同様です。エイズパニックが起きた1980年代からさらに遡(さかのぼ)って、第二次世界大戦中のアメリカ軍で性感染症予防が喫緊の課題だったときも、女性は性感染症の感染源・脅威として位置づけられて描かれていました(*1)。
性感染症予防啓発のポスター(1942年頃)では、海軍、陸軍、海兵隊の軍服を着た男性たちが、白い襟のシャツを着て微笑みかける女性を品定めするような視線を送っています。
下のキャッチコピーでは次のように書かれています。
「彼女はクリーン(清楚で性感染症に罹患していない)に見えるかもしれないが」ナンパで引っかけた女、“いい時間”を過ごす女、娼婦は梅毒、淋病を撒き散らす 性感染症に罹(かか)ると枢軸国(伊独日)を倒せないぞ
戦時体制下の軍隊組織の中で、女性を脅威・憎悪の対象として描いた上で、感染予防への注意喚起を行う第一義の目的は、兵士である男性の健康を守ることではなく、敵国を打ち倒して国家に奉仕せよと呼びかけることにあります。
異なる地域や時代の性感染症啓発広報を見比べると、男性が女性を性的対象として扱う態度とは、男性が帰属する集団(企業組織・軍隊)のホモソーシャルな関係の中で学習し、身につけるものであることが浮かび上がってきます。
性的欲求や行動は個人の欲望に根ざして発露するものですが、男性の集合体の中で醸成される意識が社会の中でイメージとして流通し、意識が固定化されていきます。性的な行為に対する集合的な意識の枠組みが強固であるからこそ、男性が個人として性の経験、とくに痛みや脆弱さを伴う経験について表明することは困難になっていくのです。
公衆衛生や性の健康は、人々を統治する制度、すなわち国家と政治の問題であり、意思決定層が中高年男性によって占められている政治の状況と直結しています。
*1 ケイト・リスター『図説 世界の性と売買の歴史 バビロニアの神聖娼婦から江戸吉原、第二次大戦下まで』風早さとみ訳、原書房、2024年、p.262.
文/小林美香
『広告で読み解く「デキる男」の現在地』(朝日新聞出版)
小林美香
「24時間戦えますか」から
「おじさんの詰め合わせ」まで
栄養ドリンク、缶コーヒー、スーツ、下着、メンズ美容、ホスト看板、選挙ポスター……
CM・ポスターに刷り込まれた“理想の男性”の虚像を暴く!
缶コーヒー広告のスーツ姿と背景の高層ビル群、
「出世」や「モテ」と結びつけられるヒゲ脱毛、
決まって命令口調で真正面から睨みつける本田圭佑。
その〈男らしさ〉のイメージはどこからきて、
男性のみならず見る者の価値観に影響を与えてきたのか。
スーツ/大股/集団/腹筋/白人男性/お笑い芸人/生涯現役……
街中の広告に潜む、これまで「なかったこと」にされてきた男性表象の問題点を炙り出す。
【目次】
序章 「男らしさ」の広告観察
第1章 ドリンク広告と働く男 ――栄養ドリンク、コーヒー、ビールの広告史
・リポビタンDの車内広告は何が問題だったのか
・「24時間戦えますか」バブル時代の栄養ドリンク広告
・「違いがわかる男」のためのコーヒー
・ビールかけという究極のホモソ儀式
・「男は黙ってサッポロビール」が描き出した「男らしさ」
・コロナ禍で起きた「男らしさ」表現の変化 ……ほか
第2章 スーツとパンツ ――装いが作る身体の価値
・「背景高層ビルおじさん」はどこへ向かうのか
・スーツ文化の墓場としての《Cut Suits》
・褌(ふんどし)を締めることの精神性
・カルバン・クラインと腹筋の商品価値
・細マッチョのK-POPスターが示す新しい「男らしさ」
・アバクロの栄枯盛衰 ……ほか
第3章 自己鍛錬としてのメンズ美容 ――「崇拝」と「推し活」の視線
・能力主義と結びつく男性の「ケア」
・「大谷翔平崇拝」を分析する
・推し活を取り込むマーケティング
・男性脱毛広告4つのパターン
・本田圭佑に命令されたい男たち
・これからの男性のケアの可能性 ……ほか
第4章 「デキる男」を目指すのは何のため? ――能力主義と「報酬」としての女性
・「男磨き界隈」を考える
・英語圏を支配する男性中心カルチャー「マノスフィア」
・「オタ恋」プロモーションへの違和感
・クリニック広告とホストクラブ看板の共通点
・再生産される「バーキン買うなら豊胸しろ」系広告
・性感染症予防ポスターに潜むミソジニー ……ほか
第5章 選挙ポスターに見るジェンダー表現 ――「おじさんの詰め合わせ」から脱却するために
・「おじさんの詰め合わせ」発言が引き起こしたハレーション
・遍在する「男の詰め合わせ」と家父長制政治
・日本維新の会が流行らせた「断言口調」と「太ゴシック斜体文字」
・SNS時代の選挙ポスター
・政治家に求められる「男らしさ/女らしさ」
・「(国名)election poster」で画像検索してみたら ……ほか
第6章 その〈男らしさ〉はどこへいくの? ――これからの教育と医療と男性性
1 田中めぐみさんに訊く、男子校でのジェンダー平等教育の実践と課題
・広告・メディアが中高生に刷り込む能力主義
・もっと男性同士の「おしゃべり」が必要だ
2 堀川修平さんに訊く、性教育史研究から捉える「男らしさ」
・大学で「男性」としてジェンダー講義をするということ
・「弱者男性」を自認する学生との向きあい方
3 池袋真さんに訊く、多様なジェンダーを生きる人に伴走する医療とケア
・接近するジェンダー医療と美容医療
・医療業界の「男らしさ/女らしさ」規範 ……ほか