
1980年8月21日にリリースされた五輪真弓の『恋人よ』。発売から45年となる今年、初の公式映像としてリリックビデオがYouTubeで公開され話題となったが、この曲が注目を集めたのは当時異例だった長いイントロだろう。
「日本人だ」と痛感したフランスでのコンサート
1972年に発表された五輪真弓(当時21歳)のデビューアルバム『少女』は、シンガー・ソングライターのアルバムとしては、日本で最初のロサンゼルス録音盤になった。
しかも当時、アルバム『つづれ織り』が大ヒットしていたキャロル・キングがレコーディングに参加したことでも話題になった。
プロデュースとエンジニアリングは、録音場所のクリスタル・サウンド・スタジオの創始者で、キャロル・キングの『ライター』のプロデューサーでもあるジョン・フィッシュバッハが担当した。
「当時はまだ日本が侍の国という見方をされていたので、彼らにとっては大変珍しいレコーディングだったのです。おそらく日本人シンガー・ソングライターのセッションという形では初めてだったのではないでしょうか。私が緊張しているのをみて、みんなが優しく、積極的に話しかけてくれました。コード譜だけの譜面でしたが、決めたい部分は同行したアレンジャー木田高介さんが指示をしていました。彼は私の良きアドバイザーでもありました」(五輪真弓)
木田といえば、1967年に早川義夫をリーダーとするジャックスに参加したのをきっかけに、解散後は小室等の六文銭に一時在籍。その後はアレンジやプロデュース業を幅広く手掛けていた才人だ。
五輪真弓はその後、1976年に4枚目のアルバム『Mayumity うつろな愛』がCBSフランスに絶賛されたことをきっかけに、フランスでもアルバム制作の申し出があり、全曲フランス語によるアルバム『えとらんぜ』を発表。
また、1977年にはパリのオランピア劇場で、サルヴァトール・アダモの2週間にわたるコンサートに、ゲストとして招かれて出演した。しかし、フランス人を前にフランス語で唄っていたその時に、「(自分は)日本人だ」と痛感することになったという。
そんなこともあって、帰国後から五輪真弓は大衆向けに歌謡曲テイストの歌を書くようになり、1978年に『さよならだけは言わないで』がヒット。この時からアレンジャーが船山基紀になったのは、シンガー・ソングライター路線から、ポップス寄りに方向を変えるためだった。
淡谷のり子、美空ひばりもカバーした『恋人よ』
船山は、五輪真弓の楽曲には日本人のDNAに訴える要素が多分に含まれていると感じて、広い層に支持されるアレンジを目指したという。
1980年代に入った5月のこと。五輪のもとに衝撃的な訃報が届く。デビュー時から家族ぐるみで可愛がり支えてくれた良きアドバイザー、木田高介が突然の交通事故で亡くなったのだ。
恩師を失ったショックの中、打ちひしがれて慟哭する夫人の姿が忘れられなかった。告別式から帰ってきた五輪真弓は、二度と再会が叶うことのない“別れ”を綴った歌詞で『恋人よ』を書き下ろした。
『恋人よ』は当初、1980年8月21日に発売されるシングル『ジョーカー』のB面になる予定だった。編曲の船山基紀は、CBSソニーの担当ディレクターだった中曽根皓二から「B面はお任せする」と言われたので、スケールの大きなバラードだったこともあり、48秒もある長いイントロをつけた。
ところがレコーディングをしてみたところ、明らかにB面の出来が「すごくいい」という意見が多く、急遽A面に昇格することになった。1977年に沢田研二の『勝手にしやがれ』で日本レコード大賞に輝き、ヒット曲の職人とも言われていた船山でさえ、思わぬ展開に慌てたという。
「面食らった。確かにスタジオで彼女の録音を聞いていても、これはいい曲だと思ったが、A面にするならあんなに長イントロ作ることもなかったので、どうしたらいいか途方にくれた。当時、五輪さんはテレビに出て歌う機会も多かったので、なんとかテレビ用に多少は短くしてみたものの、焼け石に水。もうそのままいくしかなかったが、今考えても驚異的な長さだ」
あまりに長いイントロの曲なので、テレビやラジオでプロモーションできるかどうかという心配をよそに、『恋人よ』はテレビで披露されると、すぐに評判になってセールスが急上昇した。
そして年末の日本レコード大賞にノミネートされて、グランプリは逃したものの、金賞に選ばれた。五輪真弓はNHK紅白歌合戦にも初めて出場した。
「私にとって賞云々よりも、ジャンルを超えた日本のスタンダードナンバーに関われたことが大きな誇りである」(船山基紀)
『恋人よ』は、昭和を代表する大歌手・淡谷のり子や美空ひばりらが自身のレパートリーに加えた。
文/TAP the POP
<参考文献>
「ヒット曲の料理人 編曲家・船山基紀の時代」(リットーミュージック)